真言宗の古刹である「瀧谷寺」(たきだんじ、と読む)は福井県坂井市三国町の街中にある。
こんもりと茂る杉林に抱かれて、山門まで緩やかに上る参道は真昼でも薄暗い。
北陸三十三霊場に入る本寺は巡礼者でいつもにぎわう。
参道ですれ違いざまに交わす挨拶は心地いいものだ。
山門を潜り際に見上げれば鐘楼が下がっている。
これは鐘楼門とも呼ばれ、戦国の武将・柴田勝家に寄進された。
勝家と言えば織田信長の筆頭家老として重用された人物だ。
信長の妹・お市の方を正室に迎えて信長との絆を大いに強くしたが、本能寺の変で信長が横死するとその後目を継いだ豊臣秀吉と争うこととなり、お市の方とともに福井・北の庄で自刃した。
武士とはいうものの壮絶な人生である。
400年余の時空を超えて下がる鐘の緑錆に戦国の世の虚しさを想う。
瀧谷寺は火災に合ったことがないという。
多くの戦国武将、あるいは大名たちの庇護や寄進に支えられたがそこは真言の密教、政治権力とは上手に一線を画し、彼らの精神的な支えに徹することができたからなのだろうか。
本堂に祀られている薬師如来像は越前出身の僧侶・泰澄の作だ。
泰澄とは今でいう福井県麻生津の出身の僧侶である。
時は奈良時代、泰澄はその母の生地勝山を訪ね、それが契機となって白山を開山した。
一言で山岳修行と言っても実際は恐ろしく厳しいものだったに違いない。
彼は3年ほどの長きに渡って晴雨寒暑に拘わらず山頂に座り続けたのだから。
本堂から書院の回廊伝いに裏手へ回ると、枯れた味わいの山水庭園が広がっている。
日本名勝庭園の一つに数えられるこの庭は江戸初期の造営と云われている。
陽が西に傾きかけた頃に来たものだから、空の色も幾分か青さが色あせてきた。
光も少し和らいでいる。苔むした石灯篭の色を楽しむのには、むしろこれくらいの時間帯の方がいいのかもしれない。
それにしてもだ。
鐘楼といい本尊・薬師如来像といい、その背後にいた人間たちの壮絶な生き様に比べて、何とこの庭の静謐なことか。
旅先の訪問地でこみ上げる感慨は、その風景や建物や庭園や美術品などから得る直截的なもの以上に、それらに関わり、その背景に存在する、あるいは存在した人間たちの命の熱さなのではないだろうかとつくづく思うのだ。
樹木は数百年生きながらえる。社や城は千年。それに比ぶれば人の命など束の間だ。
このような気持ちをこみ上げつつ再び参道を下る自身を、よしよし、となだめるもう一人の自分がいる。
さすが、瀧谷寺が醸すすがしい気である。