8月も晦日。すっかり日が暮れた三国出村。魚志楼の店先のぽうっとともる外灯が路面に灯りをこぼしている。空には星がまたたき始めた。
どこからか微かに三味線と笛の音に合わせた唄が聞こえてくる。その音色は段々と近づいてくる。と、店向こうの角を曲がって灯籠がゆっくりと歩いてくる。その担ぎ手に続いては、黒股引姿の男連。三国節の唄に合わせての男踊りはダイナミックな身振りが颯爽として潔い。それを追うかのように、鮮やかな紅の浴衣姿の女連が続く。その踊りの何とも柔らかくしなやかで妖艶なこと。その後には子供連。少女たちの踊りだ。観客の視線に上気したように頬をほんのり染めた乙女たちの踊りは清純そのもので清々しい美しさが漂う。しんがりは地方の三味線に笛奏者。わずか十数分の踊り行列は、夏祭りの高揚感とほんのり残る昼間の暑さの火照りを宙空に残し、静かに宵闇に吸い込まれて行った。
「帯のまち流し」は三国の町のそこかしこを9つの連がそれぞれに分かれて練り踊る、三国の新しい夏の行事である。北前船貿易の隆盛時代、花街の中心であった三国出村。その往時芸妓の置屋であった「魚志楼」は当時のままの建物を今に伝え、その前の通りは中々の風情がある。その魚志楼前のコースを練り踊れるのは前年の最優秀の連のみに与えられた名誉だ。
先導に続くのは男連。三国節の踊りには男踊りと女踊りがある。男踊りは鋭角的な手振りが多く、動きがシャープで勇ましい。男たちの見せ場のポーズがいくつもある。黒の股引に黒足袋姿が凛々しい。この置屋前の道で浴びる視線に彼らの表情も晴れがましい。男踊りの振り付けは伝承がいつしか途絶えて、最近作りなおしたものだという。女踊りは優雅で柔らかい振り付けである。三国町には小学校が5校あるのだが、いずれも秋の運動会の最後は三国節を踊る。すなわち、三国で生まれ育った人は必ず子供の時に三国節の踊りを敬虔しているということである。三国育ちの人たちの心に染み込んだ三国節は世代から世代へと受け継がれている。富山の「風の盆」の踊り手は24歳までと決まっているが、三国の「帯のまち流し」には年齢制限はない。女踊に続くのは子供連。こうして小さい頃から彼らのアイデンティティに三国節は絡んでいく。
「帯のまち流し」は福井県坂井市三国町で夏の終わりに催される夏の風物詩となりつつある。2009年に始まり、毎年参加団体も参加者も増えて2014年は500人を超えた。とても新しく若い行事だが、この踊りを下支えする「三国節」は270年も前に作られた伝統ある歌だ。その由来は諸説あって、三国神社の地突き唄とも、北前船の舟漕ぎ唄とも言われている。北前船貿易が栄えた時代、その賑わう街は三国神社から延びた帯のように広がっていたことから、かつては三国は「帯のまち」とも呼ばれた。その帯のまちも廻船貿易の衰退と共に寂しくなって来た。だが、三国節は三国の人々にしっかりと歌い継がれてきた。その三国節に合わせた踊りも、盆踊りとしてだけでなく、三国町内の小学校でも伝承すべき文化として今日まで子供たちに教えられている。そのような下地が「帯のまち流し」にはあったのである。
発案者は村田ひとみさん。幼い頃から三国節の盆踊りを見、自らも踊っていた中で、この踊りで町内を練り歩いたらどんなにか素敵だろうと、ひとみさんは夢見ていた。村田家は三国神社の祭礼「三国祭」の囃しを代々担当してきたこともあり、三国節とその踊りへの情熱はたちまち周囲の人たちを巻き込んでいった。
「三国・帯のまち流し」は老若男女誰でも参加して踊れる。江戸元禄が起こりとされ長い歴史を持つ富山「おわら風の盆」も、恐らくこの「帯のまち流し」のような熱気を孕んでの始まりだったことだろう。それを思うと、「帯のまち流し」のまさに端緒を見ている私達は、数百年後に流れて行く大河の源流にいることになる。踊り継がれ歌い継がれて三国節と「帯のまち流し」が重要無形文化財として三国だけではなく福井県、ひいては日本の宝となっている、そんな想像をしたら胸が熱くなってきた。