福井県敦賀市の杉津(すいず)から北に上がり越前岬をぐるりと回って坂井市三国町安島の東尋坊に至るまでの海岸を「越前海岸」という。
この海岸はリアス式海岸である。
山の稜線がとっぽんと海に落ち込んでいる。
海岸沿いにかろうじてしがみついているわずかな平坦地に、人家がこれまたかろうじてしがみついて建っているようなありさまだ。
耕作に適した土地がほとんどないから、この海岸沿いにある漁村は昔から半農半漁でつましい生活を余儀なくされた。
それでも福井は温暖な土地である。
しかも温暖湿潤気候の恩恵に浴し、米も野菜もそして魚もよくとれた。
現在の福井市南菅生町の海岸に鉾島という小さな島がある。
輝石安山岩の柱状節理の岩肌は、福井の名勝東尋坊からこの鉾島まで続いているのだ。
50メートルの高さにそびえたつ柱のような岩が、鉾に似ていることから、鉾島と名付けられたと伝えられている。
11月も中旬まで深まってくると日本海の波はもはや冬の暴風に囚われたようだ。
真冬の日本海に荒れ狂う三角波の凄まじさは、鋼鉄の鎧を着た大型タンカーの腹さえも裂いてしまうほどだという。
この美しい岩肌もおよそ4カ月間その波にたたかれるままとなる。
それをこの小さな岩の島は六億年も耐えてきた。
それでもしっかりと鋭い角をもって島は誇らしげに空に伸びている。
今は昔、この小さな漁村にある若い漁師が住んでいた。
名前は不明だ。
太平とでもしておこうか。
太平は村一番の働き者だった。
病に伏せっている老母一人が家族だった太平は、朝早くから海に舟を出し、病身の滋養にと鯛を獲っては雑炊をこしらえ木のへらで母の口に運んでやる親孝行者であった。
ある夏も終わりの夕暮れのこと。
太平は、村の海岸がすぐ見える沖で差してあった網を上げていた。
すると碧色の海の底から何やら眩しく光る物が網とともに揺れて上がってくるではないか。
魚じゃねえなあ。何やろか。
首をかしげながら上げてみると、何とそれは不動明王の像だった!
険しい目がどこやら遠くを見つめている。
家に持ち帰った太平は、明日にでも網元の親爺さんに相談に行こうと、その晩はその不動明王像を枕元に置いて床に就いた。
ところがその夜、不動明王が太平の夢枕に立った。
「太平よ。お前は私を鉾島の頂きに祀るのじゃ。大事にいたせよ。」
と地割れのするような声で叫ぶと明王は消えた。
がばっと起きた太平はまだ薄暗い朝ぼらけの路を駆け、村の大工の金松をたたき起していきさつを話し、二人して小さな祠を作った。そしてその不動明王を祭った。
すると、村の漁師たちが漁に出ている間は嵐や荒波がぴたりと止んだ。そればかりか魚もたいそう獲れるようになったという。
以来数百年の時を超えて今日でも鉾島の明王様は村人たちの篤い信仰を集めているということである。
この鉾島の頂上からはすぐ近くの亀島が北に、そして南には午後の日差しに映えて銀色にうねる海原が舞い上がる潮風に霞んでゆれている。