入梅後の京都はそこかしこの庭園の木々が一斉に樹勢を増す。
そして緑の色艶を一挙に深めて行く。水無月の京都を歩くと緑に迷いたくなる。
晩秋の紅葉に劣らず、梅雨時の緑のグラデーションの輝きもまた格別なのである。
そんな思いを抱いて私は洛北を目指した。
洛北とは北大路通以北の地域の呼び名である。
豊臣秀吉は天下取りの後、天皇・皇族とその住まいである京都御苑の防御のために、京都市街を土塁で取り囲んだ。
この「お土居」で囲まれた地域を洛中と呼び、その側を走る北大路通を堺に洛北となるわけである。
叡山鉄道一乗寺駅下車。
または、京都駅からバスで40分揺られるという手もある。
剣豪宮本武蔵の決闘で名高い「一乗寺下がり松」を右手に坂道を登ると、やがて「詩仙堂」の小さな山門が見えてくる。
一乗寺界隈のゆるやかな山腹を利用して寓居と庭園をこしらえたのが江戸初期の文人、石川丈山(じょうざん)であった。
頭脳明晰且つ聡明を自負していた丈山は武人としても優れ、出世を目論んで大阪夏の陣で功を成そうと先陣争いをし、敵将を打首にしたのだがこれが裏目に出た。
当時の軍律に反したとしてとがめられ蟄居とされてしまったのだ。
すっかり腐った丈山。
「なんだよ。俺のこれほどの才能が受け止められぬとは。武士の社会なんてあかんなあ!」」
と吐き捨てた丈山は武士を捨て文人で生きることを決意し、その才能を漢詩や儒学に注いだのであった。
広島藩のお抱え扶持を務めるも、愛する母が逝くと丈山は強引に引退し、59歳のときにこの詩仙堂を建て京都に移り住んた。
彼は庭園デザインのスキルがあり、この見事な庭園はそんな彼のセンスが随所に光っている。
東本願寺の庭園「渉成園」も彼のデザインだ。
この山荘で丈山は詩歌・茶道三昧に遊び90歳という当時としては大変な長寿をまっとうした。
中庭から庭園に出る。
にわか雨に濡れた馬酔木(あせび)の葉が、そして岩の肌がつややかに輝いている。
その根元の苔の膨らみがいかにもなまめかしい。
静謐の垂れこめた竹林に野鳥の声が細く裂いてこだまする。
鹿威しの野太い音がどうんと響き渡る。
深く息を吸い込む自分の呼吸音が我が頭蓋に柔らかく響く。
この小さな簡素な山荘は丈山にあっては広大な小宇宙だったのだろう。
迷いだらけの我が魂も、存分に緑の馬酔木に洗われた思いである。