旧岩崎邸は、都内に数々の別邸を構えていた三菱財閥の創始者、岩崎家の本宅跡である。東京上野の不忍池の南西で、東京大学医学部附属病院の裏手に当り、東京メトロ千代田線湯島駅からは、歩いてわずか3分である。だがここは、都会の喧噪からは隔絶された別世界だ。和洋折衷の見事な洋館は、三菱財閥の三代目総帥、岩崎久弥が、建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)に依頼して1896(明治29)年に建てたものである。
1868(明治元)年10月、慶応から明治へと改元され、江戸は東京となった。明治維新の日本は、西欧列強に追いつくために国家再建を急ぎ、西洋人を招聘して基礎教育を進め、技術指導を仰いだ。そしてあらゆる分野で、貪欲に最新知識を吸収しようとした。なかでも西洋建築の設計、および建設は、政府が進めた重要課題の一つであった。その政策の中で、ジョサイア・コンドルは1877(明治10)年に来日し、やがて近代日本建築の父と呼ばれることとなる。明治期に数多くの西洋建築を手がけたコンドルであったが、残念ながら現存する作品は少ない。コンドルは、伝統的な西洋建築に、和の素材を加味する和洋折衷型のデザインを得意とする建築家であり、旧岩崎邸の洋館は今に残るコンドルの代表作である。
旧岩崎邸
岩崎家は三菱財閥の創始者一族である。第二次世界大戦後に他の財閥とともに一時解体されたが、三菱グループとして、現在では徐々に再構築されつつある。旧岩崎邸は、創始者岩崎弥太郎の子息、岩崎久弥の本宅であった。なお、東京都内に残る岩崎家の別邸は、深川別邸跡が清澄庭園として、また駒込別邸跡が六義園として一般公開されている。当時の岩崎家本宅は、敷地面積が12000坪(約49400平米)、建物は20棟を数えた。現在残っているのはそのうちの3棟で、敷地は約三分の二に縮小されている。
洋館
コンドルの設計した洋館は1896(明治29)年に竣工した。正面の柱が深い奥行きを作り、多くのゲストが出入りできるよう、ゆとりを感じさせるスペースとなっている。重厚なドアを開けると、広い待合室がある。ゲストはここでコートと帽子を取り、夜会の催されるメインホールまで進んでいく。その間、壁や柱にびっしりと施された、繊細で上品なジャコビアン様式の木彫装飾が、ゲストの目を楽しませたことだろう。二階客室の壁は、和紙に金箔を押した金唐革紙が彩り、華やかな洋室をしっとりとした和紙が飾るという、和洋の見事な融合を見ることができる。壁紙を触ることはできないが、部屋にはサンプルフレームがあるので、金唐革紙の手触りを楽しむことができる。
庭園
洋館の前に広い芝庭が広がり、その周りを木立が囲んでいる。大きく伸びた木々の枝葉が、都会の喧噪と隔絶した静けさを守っているのだ。芝庭から洋館二階のバルコニーを見上げれば、華やかなりし頃の岩崎邸を、ふと思い浮かべることができそうだ。
ジョサイア・コンドル
コンドルは、1852(嘉永5)年に、ロンドンの南にあるケニントン地区で生まれた。幼くして父を亡くし、父のいとこが経営する建築事務所で働きながら、ロンドン大学で建築を学んだ。1877(明治10)年、25才で日本政府と契約を交わし、現東京大学工学部の教授として招聘された。
コンドルに対する学生たちの評価は非常に高かった。いくつか抜き出してみたい。
『コンドル先生はロンドンの中心部でお育ちになったので、英語の発音は聞きやすく、その講義はよく整理されていてわかりやすい。こんなに若く、洗練されていて、しかも快活な紳士である先生に、我々は教えを請うことができて幸せである。』
『コンドル先生は日本文化というものを深く理解なさっておられる。加えて、一般の英国人のような尊大さがなく、たいへん感じのよい方である。』
1888(明治21)年、政府との契約が終了すると、コンドルは都内に設計事務所を立ち上げた。美術館や省庁舎、丸の内の三菱ビル、ドイツ大使館、個人の邸宅など、短期間に数多くの設計をしている。特に、丸の内の三菱ビル設計に関しては、一面の原野だった丸の内地区の、初期開発計画から携わった。コンドル設計の三菱一号館は1895(明治28)年に竣工し、1968(昭和43)年に解体されたが、2009(平成21)年、丸の内再開発計画に伴って、正確に復元されている。
私生活におけるコンドルは、1861(文久元)年に絵師川鍋暁斎に弟子入りし、後に暁英という号を受けるほど、熱心に日本画を学んだ。また、後に妻となる前波くめからは、日本舞踊を習った。1872(明治5)年に横浜で設立された日本アジア協会は、日本文化理解のために設立された西洋人中心の勉強会であったが、コンドルもその会員だった。会の中心人物であった英国大使館のアーネスト・サトウとは、私生活でも交際があったようだ。サトウは後に、日光中禅寺湖の別荘設計をコンドルに依頼している。別荘地の下見をするため、東京から日光まで二人で出かけたり、現地で湖畔の船着き場の構想を考えたりしている。別荘は1896(明治29)年に建設され、サトウが離日した後は、英国大使館別荘として2008(平成20)年まで、歴代大使家族が日光での避暑に利用していた。
コンドルと横浜
1900(明治33)年頃、コンドルは横浜に居住していたと思われる。1901(明治34)年から1904(明治37)年まで、コンドルの名前は、ジャパン・ディレクトリーに横浜の住所で登録されている(ただしディレクトリーの記録は、すぐには現状を反映しなかったため、いくらか時間差があるという)。当時の写真や設計図などから、ロイヤルホテル、山手85番病院、横浜ユナイテッド倶楽部、横浜山手聖公会などがコンドルの作品であったと考えられている。しかし、いずれの建築物も現存しない。横浜山手聖公会は、ドーマー窓と二列のステンドグラスが美しい、赤煉瓦仕上げのゴシック様式の建物だった。関東大震災で倒壊後、アメリカ人建築家、J.H. モーガンによるノルマン様式の建物に変わり、現在に至る。
一人娘ヘレン
ヘレンは1880(明治13)年に生まれたが、母親の名前は明らかでない(コンドルの妻、前波くめではない)。ヘレンは名士の子女が通う東京女学館を卒業した後、ブリュッセルのフィニッシング・スクールに4年間留学した。帰国の船上、デンマークの名門、グルット家の子息ウィリアム・レナート・グルットに見初められ、1906(明治39)年にグルットと結婚した。コンドルが病死すると、ヘレンは当時の夫の赴任先であったバンコクから、急ぎ帰国した。そして葬儀など一切を執り行うと、バンコクに戻っていった。ヘレンはその後再び日本の土を踏むことはなく、1974(昭和49)年、コペンハーゲンで94年の生涯を閉じた。