横浜 元町公園

異人たちの足跡 3 ジェラールが残したもの

Tomoko Kamishima   2012/08/20によって

元町公園は、横浜外国人墓地の西側の谷戸にあり、山手本通のエリスマン邸から、プール、弓道場、ウォーターガーデン、住宅地を挟んでその先のジェラール水屋敷までを含む。

エリスマン邸と山手80番館遺跡

1926(大正15)年に山手126番に建てられたエリスマン邸は、とてもかわいらしい洋館である。設計はアントニン・レーモンド、所有者はスイス人のフリッツ・エリスマン(シーベルヘグナー商会の横浜支配人)であった。大型マンション建築のため、1982(昭和57)年に解体された後、横浜市が取得したが、公開には至らなかった。その後横浜市は、1990(平成2)年の元町公園整備の際に、エリスマン邸を現在地に移築復元して、山手本通の他の洋館とともに一般公開した。解体前には和館が併設していたというが、現存しない。

エリスマン邸の先には山手80番館遺跡がある。ここは、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊した、フランス人マクガワン夫妻の邸宅跡である。壁面に鉄棒補強がなされた煉瓦造りの三階建てであったが、邸宅は全壊した。1984(昭和59)年の発掘調査後、見学用デッキが設置されているので、上方から基礎部分の遺構を見ることができる。それにしても、上屋の失われた部屋の仕切りや、崩れた煉瓦は、震災の凄まじさを物語っていて、深い悲しみを覚える。なお、この建物にもジェラール瓦が使われていた。

50mプールと弓道場

木立の中を緩やかに下ると、すぐ右手に、緑に囲まれた50mプール(水深1.2−1.4m)が見える。シーズン中は多くの人で賑わうが、子供たちの姿はほとんど見かけない。熱心に泳ぐ人と、もっぱら日焼けを楽しむ人の二通りで、大人の時間を過ごすプールと言ったほうがいいかもしれない。だが9月の声を聞けば、急に宴の後の静けさが訪れる。枯葉舞うプールは物寂しいが、それもまた絵になる景色である。

1999(平成11)年、プール管理棟の屋根は、複数の市民から寄贈されたジェラール瓦の本物を使って葺き直された。プールは毎年、7月中旬から8月いっぱいまで解放されており、日中だけでなく、夜9時までのナイター営業もしている。日中は1時間200円、ナイターは1時間300円。

プール裏の弓道場は、近的用(射距離28m)、5人立で、個人利用も可能である。水曜と土曜の夕方は、稽古をしている人の姿を見ることが多い。利用料は1時間130円。

ウォーターガーデン

ウォーターガーデンと呼ばれているのは、噴水と池のあるプール前の一角である。西洋式の花壇には季節の花が咲き、そぞろ歩きも楽しい。また大きな桜の木が約100本、公園の外縁をぐるりと囲んでいる。お花見の時期、早朝にウォーターガーデンを訪れれば、薄桃色の別世界を独り占めできる。ジェラールの上部貯水槽は、この桜の園の場所にあった。

離日後のジェラール

1878(明治11)年、横浜で給水業を営んで財を成したジェラールは、日本を離れた。帰国の理由はわかっていないが、帰仏直後にパリから南へ300km、フランス中部のヴィシー温泉に向かい、長期療養を行っている。ヴィシーは紀元前から名高い温泉保養地である。このことから、ジェラールには何らかの体調不良があったと推測される。

フランスでの生活

翌1879(明治12)年、ジェラールの父がパン屋を営んでいたラーンスの土地に、ガラス屋根とアールデコの装飾を施したビルを建築する。後にこのビルが、25000冊の農業関連の蔵書を集めた図書館と、レモア農業サークル(レモアはラーンスのあるシャンパーニュ地方に住む人の愛称)の所在地になる。1884(明治17)年、パリで開かれた第8回美術工芸中央連盟博覧会の工芸陶芸部門でジェラール瓦と煉瓦が大賞を受賞した。ジェラールの帰仏後も、横浜のジェラール商会は存続し、複数の経営者が維持していたことがわかっている。1889(明治22)年には、パリ万国博覧会に自ら考案、設計した二槽式堆肥溜の模型を出展した。この堆肥溜は、ラーンスの主力農産物であるシャンペン用ブドウの生産に大いに寄与した。ラーンスの土壌は石灰質が多く、有機系の養分に欠けているため、それを補うために大量の堆肥を必要とした。ジェラールの堆肥溜は、効率的、かつ衛生的に堆肥を発酵させて、有機系養分を増大させることができたのである。

1891(明治24)年、母方の遠戚の屋敷の2階に同居人として住民台帳に記載されている。同じ年の5月、日本から持ち帰った収集品(陶器、武具、人形、能面、掛軸、版画、地図など)のうち、800点をラーンス市に寄贈する。市はそれを受けて11月から市博物館でジェラール・コレクションを常設展示した。この時初めて、日本という国の文化に触れたフランス人も多かっただろう。1897(明治30)年には追加寄贈して、ジェラール・コレクションの総数は2456点に及んだ。現在それらはサン・レミ博物館に収蔵されているが、一般公開はされていない。

1904(明治30)年、67才のジェラールはラーンス市の高齢者ケア付住宅に入所した。ジェラールは生涯独身で、子供の存在は知られていない。1914(大正3)年、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦の空襲で、ラーンスは徹底的に破壊された。戦火の中、ジェラールのビルも蔵書も、寄贈したコレクションの多くも失われた。1915(大正4)年3月19日、ジェラールは心臓麻痺の兆候を見せて意識不明に陥り、入所していた施設の地下室で息を引き取った。

ジェラールの墓

遺体は一時ラーンスの南墓地に埋葬されたが、遺言により、その後ラーンス近郊のブザンヌに移葬された。ジェラールの墓前には、大きな鳥居が立ち、墓石には日本語で『文久三亥年八月九日横濱入来 明治十一年七月一日横濱出立 アルフレド ジラル』と刻まれている。

ジェラールが日本で過ごしたのは、26才から41才までのわずか15年間である。しかし、墓石の日本語や墓前の鳥居は、ジェラールにとって日本が大切な国であったことを物語っている。ジェラールは、その時々の日本の事情に合わせて事業を興し、西洋の技術で横浜の発展に貢献した。またフランスに持ち帰った日本の収集品は、フランス人に、長く世界への戸を閉ざしてきた神秘の国、日本の文化を伝える役割を果たしたといえるだろう。

Tomoko Kamishimaさんによって書かれました。
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