上高地と日本アルプス

異人たちの足跡 29 ウォルター・ウェストン

今日のようなレジャーとしての登山は、明治以降、西洋人が日本の山々を訪れるようになってから始まったといえるだろう。

古来、山を神として崇めてきた日本人にとって、山に入ることには明らかな宗教上の目的があった。例えば、弘法大師を始めとする修行者は、山岳信仰のために深山に分け入り、山の恵みを生活の糧とする木こりや猟師は、山道の至る所に祠を設けて神を祀って感謝の祈りを捧げてきた。

日本における登山

様々な制限があったとはいえ、外国人が日本国内を旅行できるようになったのは、1880年代以降のことである。英国公使館付きチャプレン(牧師)の身分をもっていた宣教師・ウォルター・ウェストン(1861-1940)は、富士山に7度、日本アルプスに4度登り、他にも、八ヶ岳、妙高、戸隠、金峰山、妙義山、浅間山、日光男体山などに足跡を残した登山家であった。ウェストンはスイスでの登山経験も豊富であったが、日本の山々には強く心を動かされたようだ。登山の難しさだけではなく、苦労して登った山頂には、すでに神を祀る社があったのだから。

ウェストンは本州の中央を貫く日本アルプス、(北アルプス(飛驒山脈)、中央アルプス(木曽山脈)、南アルプス(赤石山脈)の三つの山脈からなる)について、詳細な記録(『日本アルプスの登山と探検』『日本アルプス登攀日記』)を残し、帰国後、ヨーロッパ各地で日本アルプスの魅力について講演を行った。

ウェストンと山岳ガイド・嘉門次

1893(明治26)年、ウェストンは、当時北アルプスの最高峰と思われていた前穂高岳(3090m)に登った。案内役は上高地の名山岳ガイド、上条嘉門次(かみじょうかもんじ)。嘉門次は、弱冠14才でカモシカを撃ち取り、生涯に熊・80頭、カモシカ・500頭を仕留めたという伝説の猟師で、上高地一帯の地形を熟知していた。「山のことは山に聞くさ。それがいっち確かずら。」という言葉には、嘉門次の冷静な判断力と、山で生き抜く知恵が感じとれる。

初めての北アルプス

ウェストンは、前穂高登頂の日の様子を、次のように記している。ウェストンはこの山行を本当に楽しんでいたようだ。

『我々の眼前には、穂高の南麓から尾を引くように、丸い小石が敷き詰められた梓川の川床が広がる。山頂が花崗岩からなる山としては日本最高峰の、10,150フィートの頂が、雪に覆われた尾根から空を突き刺すように伸びている。その絵のような光景は、まさに『尖ったトウモロコシ』だ。北側では鋭い岩山稜が槍ヶ岳へと続いているが、まだここからは高い木々が邪魔をして、一枚岩の山頂は見えない。しかし、ほんの少し左へ下ると、前途の真北にそびえる常念岳が、蝶ヶ岳と鍋冠山のさらに向こうに、そのピラミッド型の山姿を現している。』

『日本アルプスの登山と探検』の原著より著者訳。

20年後の再訪

それから19年後、ウェストンは再び嘉門次を案内役として、今度は奥穂高岳に登った。奥穂高は、正確な測量の結果、現在、北アルプスの最高峰とされる。この滞在期間中、ウェストンと嘉門次はすばらしい時間を過ごした。日記には、『古い時代のお互いのことをたっぷりと回想して、私は最高に嬉しく、(嘉門次と)喜んで語り合った』と記されている。

そして次の年、つまり初登頂から20年後の夏、ウェストンは槍ヶ岳(3180m)、焼岳(2455m)、奥穂高岳(3190m)を目指した。この山行には、ウェストンの妻、エミリー・フランセスも同行した。一行は見事に登頂に成功し、フランセスは、槍ヶ岳および奥穂高岳に登った女性第一号となった。ウェストンの日記には、フランセスの登頂を心から喜ぶ嘉門次の様子が記されている。また、奥穂高岳からの下山途中、嘉門次との友情を感じさせる印象的な一文が見られる。

『我々を勇気づけてくれたのは、おいしくて甘酸っぱい黒スグリだった。この香りと味は、20年前に嘉門次と初めて穂高に登った日のことを思い出させてくれる。』(『日本アルプス登攀日記』三井嘉雄訳より)

ウェストンの日本滞在

ウォルター・ウェストンは1861(万延元)年にイングランドのダービー市で生まれ、1883(明治16)年にケンブリッジ大学のクレア・カレッジを卒業した。その後、1887(明治20)年にはMA(文学修士)を受けている。1888(明治21)年に宣教師として来日し、熊本、神戸、横浜で奉職した。ウェストンの日本滞在は合計3度、13年間に及んだ。

ウェストンと箱根

1894(明治27)年、ウェストンは御嶽山(今年、2014年に噴火)に登頂した。そして神戸への帰路、箱根、宮ノ下の富士屋ホテルに滞在し、日本学の権威、バジル・ホール・チェンバレン(1850-1935)と、昼食とお茶をともにした。このチェンバレンが、ウェストンに登攀日記をつけるよう助言したと言われている。

1914(大正3)年、富士山登頂を果たしたウェストンは、下山途中、各地で台風の被害があったことを知った。帰路、再び箱根を通っているが、『道路はものすごく被害を受け、芦ノ湯に行く手前はとくにひどかった。・・・小涌谷では、親切にも山口氏(富士屋ホテルの主人、日光金谷ホテルの金谷善一郎の次男)がさしむけた人夫がランタンを持って待っていた。人夫と一緒に無事に宮ノ下へ下れた。』と、被害の甚大さを記している。

ウェストン離日後の自然災害

ウェストンは幸いにも、日本滞在中、火山の噴火や地震の被害には遭遇していない。焼岳が大噴火を起こして大正池が出現したのは、まさにウェストンが離日した1915(大正4)年であった。また、牧師を務めていた横浜山手聖公会も、ウェストン滞在中は、美しいヴィクトリアン・ゴシック様式の教会堂を誇っていた。当時の山手聖公会は、日本近代建築の父・ジョサイア・コンドル(1852-1920)が設計したものであったが、ウェストン離日後8年目の1923(大正12)年に、横浜は壊滅し、教会堂も全壊した。

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