下鴨神社は、西の加茂川と東の高野川が合流して鴨川となるあたりに位置しています。鴨川を中心に発展してきた京都の街にとって下鴨神社は、1200年の時を越えて今日に至るまで、ずっと街の守護神だったと言えるかもしれません。
下鴨神社の正式名称は賀茂御祖(かもみおや)神社です。御祖(みおや)の意味は、上賀茂神社、すなわち賀茂別雷神社に祀られる「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」の母である「玉依媛命(たまよりひめのみこと)」と祖父の「賀茂建角身命(かもたてつぬみのみこと)」が祀られていることによります。賀茂建角身命は昔、八咫烏(やたがらす)に化身して、神武天皇(初代の天皇)を熊野から大和へ道案内したと伝えられています。八咫烏と言えば、サッカー日本代表チームの胸のエンブレムに描かれている黒い鳥を思い浮かべる方もいるかもしれません。そこで下鴨神社を知るために、まず八咫烏が登場する神話の世界をのぞいてみたいと思います。
八咫烏の物語
『古事記』や『日本書紀』では、八咫烏は次のように語られています。
紀元前600年頃、日向国(宮崎県)高千穂宮にいた神日本磐余彦天皇(かんやまとのいわれびこのすめらみこと)は、国造りのために東へと進軍することを宣言しました。幾多の戦いを経て、南紀から北上し、いよいよ大和国(奈良県)に侵攻しようとしていたところ、軍は険しい熊野の山中で道に迷ってしまいました。すると、その様子を見ていた天照大神が、道案内として八咫烏を送り、軍を先導させました。その後も戦いは続きましたが、最後は神日本磐余彦天皇が勝利を収め、畝傍山の東南、橿原の地に入って、初代天皇・神武天皇が誕生しました。
八咫烏は、三本足の烏として知られますが、道案内を終えて熊野に帰った後は石になったとも、また一方では、元の姿である賀茂族の首長・賀茂建角身命に戻ったとも伝えられています。そして「賀茂建角身命」は、その後一族を引き連れ、山城国(京都府)に移住したともいわれています。
さらに『山城国風土記(やましろこくふうどき)』、『賀茂縁起(かもえんぎ)』。『賀茂旧記(かもきゅうき)』による後日談では、次のように語られます。
賀茂族の祭祀を取り仕切っていた玉依媛命が、一族の繁栄をもたらす神の降臨を願っていたところ、加茂川の川上より丹塗りの矢が流れてきました。「玉依媛命」はその矢を持ち帰り、寝所に飾っていたところ、懐妊し、男御子を産みました。
数年後、「賀茂健角身命」が神々を招いて酒宴を催していたときのことでした。宴の席で、「賀茂健角身命」は少年となった男御子に盃を渡し、この中で、父神と思う神に盃を渡すようにと言いました。すると男御子は、「吾は天神の御子なり」と答え、天に向かって盃を投げ上げて昇天してしまいました。
祖父は大変に悲しみ、毎夜、男御子のことを思っていたところ、ついに夢に現れた御子が、神祭の準備について詳しく述べました。そこで夢のままに神祭を行ったところ、御子神は神山に降臨したと伝えられています。
この御子神が、上賀茂神社の御祭神「賀茂別雷命」であり、母である「玉依媛命」と祖父である「賀茂健角身命」は下鴨神社の御祭神となりました。
なお、サッカー日本代表のエンブレムになった八咫烏は、ボールをゴールに導くように、という願いが込められているようです。
みたらしの池
楼門を過ぎると、いくつかの社殿が並び、その最奥に、「玉依媛命」が祀られる東本殿と、「賀茂健角身命」が祀られる西本殿があります。みたらし川にかかる右手の紅い橋の先が、みたらしの池です。ここは葵祭の斎王代が手を清める神聖な池です。
私が夏に下鴨神社を訪れた時、池の畔では、夏越神事(なごししんじ)の準備が進められていました。この神事では、選ばれた裸男たちが、池に飛び込んで矢を奪い合います。神官たちは、その矢を立てる木製の矢立て台を制作していました。
また、冬の朝に下鴨神社を訪れた時は、社殿の屋根をうっすらと雪が覆っていました。みたらし川にはもやがかかり、境内には神秘的な雰囲気が漂っていました。
糺ノ森を歩く
下鴨神社への正式な参拝路は、糺ノ森を抜ける長い参道を歩くものです。下鴨神社前のバス停で降りれば、社殿まではすぐですが、これは本来の参道ではないようです。糺ノ森の参道には、清らかな小川が流れ、道は深い森に包まれています。夏には子どもたちが水遊びをしたり、写生をしたりする姿を見かけました。また、かき氷の旗が揺れるお茶屋も、楼門近くに1軒あります。一方冬の糺ノ森は、どこか現実離れした遠い世界のような雰囲気が漂っていました。まるで本当に、木陰から3本足の烏が、突然姿を現しそうな気配がありました。