奥州藤原氏が遺した平泉の夢の跡

王国の面影残る中尊寺

”みちのく”と呼ばれ、辺境の地とされた東北地方。その地に壮大な夢(仏国土)を建設し、長きに渡り治めて来た奥州藤原氏。平泉は100年近く繁栄を続け、みちのくは戦争のない「理想郷の平泉」だった。

しかし平氏政権を倒した源義経を始め、源家の抗争に巻き込まれ、ついには文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡してしまった。飛び火した因子の義経を庇護した目的は、三代秀衡が義経を当主に立てて新政府を作る大構想にあったらしいが、如何せん秀衡の死が早過ぎた。鎌倉幕府の圧力に耐えられる力がまだ四代泰衡には備わっていなかったのだ。そして奥州藤原王国、平泉の多くは灰塵と帰した。

信心深かった源氏の棟梁頼朝は平泉の仏教文化に深く感銘を受け、寺院の存続は約束された。だが奥州藤原氏と云う大きな後ろ盾を失くした中尊寺はやがて衰退していく。俳聖の句「五月雨の 降り残してや 光堂」の通り、光堂だけが残った光景はとても哀愁感漂う景色だったろう。

行き方

中尊寺へのアクセス

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