350年間にわたって、名古屋城は日本で最も豪華な城であったというだけでなく、当然ながら城郭建築の旧国宝として日本一の大きさと見事な建築構造を誇っていた。また、その保存状態も非常に良かったと言われている。実際、城郭のみならず、その城内の細部にいたるまで、現在、国宝に指定されている京都の二条城をはるかに超える美しさである。明治26年(1893年)から昭和5年(1930年)まで、名古屋離宮として天皇の行幸の際に使われ、当時の陸軍省が敷地内に兵舎を建てていた。当時においても、名古屋城は名古屋が誇るランドマークだった。しかし、世界第二次大戦において連合軍に降伏するほんの数ヶ月前にあたる昭和20年(1945年)5月14日、米国による空襲によって戦火を浴び、本丸御殿、門、壁などが天守閣とともに焼け落ちてしまった。
江戸時代においても、名古屋は城下町として非常に栄えていた。後の将軍候補である徳川御三家の筆頭格である尾張徳川家が城主で、敵対していた大阪に対する防御の最前線でもあった。
屋根に18金の金板でできた高さ2mの金鯱が設置された名古屋城は日本一大きな城であった。その屋根はどちからと言えば中央部を凸形にして両端部を凹形の曲線状にした唐破風で、珍しく小天守閣と大天守閣の2棟が設置され、その小天守閣は屋根のない高い壁に囲まれた廊下で壮大な天守閣につながっている。
慶長15年(1610年)、後に日本一大きく立派な要塞となる城の築城が始まり、その2年後に城が完成した。抜け目ない徳川家康は、ただ同然に日本一豪華な城が建つよう計画を進めるため、各地の大名に石積み工事、城の骨組み用材木の支給、城の工事に携わる人材確保などを命じた。築城の助役を命じられた諸大名にとって、何トンにもおよぶ巨石やその他資材(材木については述べられていない)の供給と運搬にかかる費用や人件費が大きな経済的負担となった。そのため、諸大名は武器や兵の調達が困難となって、結局、謀反の企てなどが抑制された状態に陥った。
築城助役の命を断る大名には制裁もあった。命令に従った大名については、その苦労と忠誠心の証として運んできた石に家紋を刻んだ大名もあった。石垣の刻文は今もなお残っており、築城当時刻まれた様々な刻文を探すのも楽しみの一つだ。その中でも、清正石(加藤清正に由来)として知られている一際大きな石がある。加藤清正は、その石積み技術を駆使して名古屋城を天下一堅固な要塞にするよう命じられていた。清正は巨石運搬の際、家来たちの士気を高めるために公言した通り、石垣が完成したときに清正の像が建てられた。もちろん、現在も清正像を臨むことができる。
徳川家康が将軍になることを狙って一県一城の掟を定めたため、小さな城は取り壊された。実際、名古屋城築城の際には名古屋城の周囲にあった小さな城は取り壊され、その石や材木は名古屋城築城の資材として使われた。とりわけ、清洲城の話はよく知られている。清洲城の天守閣は取り壊されたが、後に資材を転用して名古屋城御深井丸西北隅櫓として名古屋城内北西の角に建てられた。この隅櫓は第二次世界大戦の名古屋大空襲で戦火を逃れた櫓のひとつである。他に戦火を逃れ現存する櫓として、南西の角に建てられた未申櫓と南東角にある辰巳櫓があるが、両櫓ともに帯鉄が打ち付けられ、乾いた空堀に囲まれた表二の門横に現存している。
名古屋城の特徴として、「剣塀」も挙げておくべきだろう。軒先に槍の穂先を並べ、忍返しとして使われたもので、天守閣と小天守閣とを連結する橋台や不明門に見られる。これは、織田信長が生まれたとされる当時のままで、筋金入りの城郭ファンにとっては必見である。その城は現在二の丸がの一部となっており石碑にその説明が刻まれている。
名古屋城は昭和34年(1959年)に復元され、特に内装は愛知万博(2005年)に先駆けて修繕・復元がかなりのピッチで進められた。特別展示は通常2階にある企画展示室で見学でき、3階では城内・城下の暮らしについて学ぶことができる。また、侍の鎧や武器などは4階、名古屋城の歴史については5階に展示されている。尚、最上階は展望室と土産店となっている。各展示はかなりの見ごたえで、展示に添えられている説明が見学を一層楽しくさせてくれる。本丸御殿の復元工事が平成21年(2009年)に着工され、完全にオープンとなるのは平成29年(2017年)となる。
名古屋城は大きいだけでなく、美しい庭園に囲まれ、四季折々の花木を楽しむことができる。また、茶室でお茶をいただいたり、石垣の刻文を探しながら天下一の城と言われる名古屋城の歴史について学んだりすることもできる。名古屋城は名古屋のランドマークであり、そんな城を訪れることができるのも旅の良い思いでである。