江戸時代、一面の芦原だった将軍家の鷹狩場に、四代将軍徳川家綱の弟、松平綱重が、海を埋め立てて別邸を建設したのは1654年であった。東京湾に通じる水路から海水を引き込んだ潮入りの池、60種800株が咲き誇るボタン園、中島の御茶屋、海に面した築山など、浜離宮は、25万平方メートルの四辺形の土地に造営された、変化に富んだ名勝地である。
庭園の歴史
1654(承応4)年に松平綱重が建てた別邸は、その子、綱豊(後に家宣)が六代将軍になると、将軍家の所有となった。江戸城の出城として、石垣が積まれ、浜御殿と呼ばれるようになる。家宣の庭園改修の際に植えられたとされる三百年の松は、大手門を入るとすぐ左手に、今も見事な枝を伸ばしている。その後、明治期には皇室の離宮となり、浜離宮と改称される。1869(明治2)年、洋風の外国人接待所「延遼院」が設置され、鹿鳴館が完成するまで、迎賓館として多くの賓客を迎えた。しかし、関東大震災や東京の空襲で、庭園は荒廃し、大手門や茶屋など、ほぼすべての建物が焼失した。中島の御茶屋をはじめとする現在の建物は、戦後東京都に下賜された後に再建されたものである。1946(昭和21)年からは都立公園として一般公開されている。
庭園の見所
花
汐留・新橋方面からは大手門を入る。直進すれば菜の花が咲き誇るお花畑とボタン園、その先の小道を進めば梅林がある。水上バスで築地川の発着所から入れば、すぐ正面に深紅のアメリカデイゴが迎えてくれる。他に、藤棚、菖蒲の池など、折々の花が見られる。桜は種類が豊富で見頃が長い。
潮入りの池
江戸時代、諸大名の下屋敷では、潮の満ち引きを利用して、池の水位を変える趣向が多用された。浜離宮は、江戸時代の日本庭園の集大成とも言われる回遊式庭園の代表例である。池を中心に、周囲に巡らされた園路を歩けば、小島や橋、岩場、築山など、日本各地の名勝を模倣した景観を一巡できるという仕掛けである。
池にはボラ、セイゴ、ハゼなどの海水魚が棲息している。現在は東京湾の潮の干満に従って水門を開閉し、池の水を調整している。
中島の御茶屋
潮入りの池に浮かぶ中島には、お抹茶と和菓子で休憩できる御茶屋がある。テラス席からは、かつては将軍家の人々だけが愛でた回遊式庭園を楽しむことができる。総檜作りのお伝いの橋を渡れば、御茶屋の入口がある。和菓子は季節の練菓子、夏は氷の入った冷たいお抹茶も注文できる。1707年(宝永4年)に造られた休憩所は、東京の空襲直前まで存在していたという。
鴨場
庭園には二つの鴨場がある。さてどうやって鴨を捕ったのであろうか。鴨場には引掘と呼ばれる細い堀があり、堀の両側は土手で囲まれている。まず池で飼育しているアヒルを、音と餌で引堀におびき寄せる。引堀の奥には小覗(このぞき)という見張り小屋があって、アヒルに釣られて引掘に入り込んだ鴨を、小覗で監視している。小覗から合図があると、土手に隠れている人が、網で鴨を捕獲するというものであった。
樋の口山、新樋の口山
東京湾に面した庭園西側は、築山があしらわれている。芝とシロツメクサに覆われた築山に生えている松は、海風のためか、幹や枝が不思議な歪みをもっていて面白い。ここはまた、東京湾が一望できる絶景ポイントでもある。かつては房総半島や三浦半島、大島なども見渡すことができたであろう。今は水上バスや漁船が行き交い、レインボーブリッジを望む。
浜離宮庭園を一歩出れば、首都高速や高層ビル、東京タワーが目の前に迫る。東京から江戸へ、タイムスリップしてのんびりと散策するには最適な場所である。