山代温泉を川伝いに山間に分け入り進むと山中温泉郷は見えてくる。
「鶴仙渓(かくせんけい)」は、刈安山と鞍掛山のあわいの谷底に細く延び広がる山中温泉郷にあって、大聖寺川の東岸沿いに南端の「こおろぎ橋」から「黒谷橋」まで1キロほどにわたって続く渓流である。
川沿いの大小の砂岩が浸食されて見せる奇勝は、川の両脇の崖から水面に垂れ落ちる木々の枝ぶりと相まって、見る者をまさしく幽玄に誘ってくれる。
その渓流沿いに細い遊歩道が延びている。
晩秋に晴天の好日を臨むのは北陸では珍しくありがたいものだ。
昨夜来の驟雨を未だ晴らさずにある歩道の敷き石は少しぬめりをとどめていて、つい足を取られそうになる。
晩秋とはいえ昼前の日差しには勢いがある。陽光に燃える黄や紅の葉々をくぐり歩くと、渓流のはぜる水音が両岸の岩崖に反響し合って心地よい。
たかだか1キロとは言え石段の登り降りが数多あって黒谷橋まで辿り着いた頃にはすっかり汗ばんでいた。
鶴仙渓の折り返し辺りに小さな庵が結んである。
見れば芭蕉堂とある。
この堂は、江戸が生んだ俳聖・松尾芭蕉を偲び明治期に建てられた。
芭蕉は「おくのほそ道」の旅程において、東北から北陸に下り金沢に入った。元禄二年の夏文月も終わりの事であった。
金沢では後に金沢蕉門の発展にも繋がる面々との連日の句会が催され芭蕉は意気軒昂であった。
が、旅の疲れか随伴の河合曾良の体調が思わしくない。
「どうした。顔色がすぐれないが。」
「お師匠様、どうも数日前から腹の疼痛が一向弱まりません。」
「曾良、お前さんには無理をかけたのう。」
「いえ、滅相もございませぬ。(金沢の)城下で早速良い薬でも戴いてみようかと存じます。」
七月二十四日に金沢を発った二人は三日後の二十七日に大聖寺に差し掛かった。
もう越前を越えればこの2,400キロに及ぶ旅は終りだ。
芭蕉の気持ちはとんと楽になっていた。
「このところどうも痔の具合が良くなくてな。山中で湯治でもせぬか。」
「お師匠様、それはようございます。」
風呂嫌いで知られる芭蕉が湯治と言いだしたので曾良はいささか驚いた。
果たして、痔の快癒がすこぶる芭蕉を喜ばせたのか、はたまた、山あいの秘湯がいたく気に入ったのかは知る由もないが芭蕉は何と山中で八泊もの長逗留をしたのである。
連日芭蕉は朝餉の後から湯につかり鶴仙渓を散歩し、長い旅の疲れを癒し続けた。
河縁の岩に芭蕉は腰を降ろして川床を吹きあがる涼風に頬の火照りを鎮めつつ、小岩に躍り上がり白い水泡を結びながら下って行く水の行方を眺めていたのだろうか。
『川の水は止めどなく流れゆくが、物事の本質というものはその眼前の岩のように変わらずに其処に在り続けるものだ。』
五か月に及ぶ長旅の記憶が芭蕉の脳裏に鮮やかに蘇る。
「山中や 菊は手折らじ 湯の匂ひ」(山中の湯に浴せば中国の菊茲童が集めた不老長寿の菊の露を飲むまでもない長寿を得る、という意。)
あらゆる無駄をそぎ落とし研ぎ澄まし選び抜いた珠玉の言葉を繋いだ芭蕉の俳句。
だからこそ今日、日本一の俳諧人としての芭蕉の評価はある。
そのような俳聖が確かにこの渓流を歩きおちこちの岩に腰を降ろした。
それを想像すると私の胸は高鳴り熱くなる。
雑文を書き散らかす我が身としては物書きの末席にちょこんと座らせていただくことすら恐れ多く恥じ入ってしまう。
が、むしろ芭蕉ほどの高みになれば問題にもならないだろうから、まあよかろう。
言葉を紡ぐ事において芭蕉ははるか彼方の雲上にそびえる霊峰そのものだからだ。
山中の渓流は只静かに密やかに流れ続ける。