この公園の一番の魅力は、視界に何もないことである。193,102㎡の広大な敷地はお椀のような窪地になっていて、道路に面した小高い部分にレストハウスやトイレなどの施設が置かれ、周囲は木立で囲まれている。そのため、中に入ってしまうと、なだらかな芝生だけが目の前に広がるのだ。目に入るのは、木々と草地、そして鴨の遊ぶ、小さな池のみである。
横浜に外国人が暮らし始めるようになって間もなく、1861(文久元)年には、今の元町や、かつて関内にあった横浜洲干弁天裏、現在の中華街や港の見える丘公園などで競馬が行われた。しかしこれらは、競馬が終われば日常の用途に戻る仮の競馬場だった。西洋人にとって競馬は、日常生活と切り離せないほど、なじみの深い娯楽であったため、1866(慶応2)年、幕府は居留外国人の要望を受けて、横浜根岸に日本初の近代的な常設競馬場を建設した。
横浜競馬場
1866(慶応2)年12月、根岸に競馬場が完成した。年が明けて1月11日には最初のレースが行われる。師岡屋伊兵衛版の浮世絵『横浜名所内』に見る競馬の模様は、絢爛豪華である。富士山を背景に風を切って駆け抜ける馬たち。シルクハットにタキシード姿の紳士や、パラソルにドレスで着飾る淑女が競馬場に集う。この頃の競馬は、大衆娯楽とはほど遠い、選ばれた人々だけの社交場だったようだ。
明治中期までの競馬は、日本在来馬と中国産馬だけで行われていた。イギリス外交官のアーネスト・サトウも、来日してすぐに競馬を見に行っている。横浜レース・クラブの会員だったサトウは、馬主としても時々エントリーしていた。『文明開化うま物語』には、サトウと愛馬が写っている写真がある。西郷隆盛の弟、西郷従道は、日本人初の横浜レース・クラブの会員となった。4頭の馬を登録して迎えた1875(明治8)年11月4日の第二レースで、所有するミカン号が勝利を挙げて、スタンドから大喝采を浴びた。チャールズ・ワーグマンは早速、このニュースをジャパン・パンチに載せた。従道の似顔絵を描いた大きなみかんが騎手となって、ミカン号を走らせている姿は、ユーモアたっぷりである。
明治天皇は、1880(明治13)年のレースに銅製花瓶を下賜し、以後これが天皇賞として定着していく。明治天皇は根岸に13回、東京競馬場その他を含めると、50回の競馬行幸をしたほどの競馬ファンだった。
根岸森林公園
横浜競馬場は76年間の歴史を閉じて、1943(昭和18)年、海軍に接収された。外国人の所有していた馬は没収されて、競売にかけられるなど、かつての華やかな競馬場の面影は消えた。また戦後も、この地はアメリカ軍の管理下におかれて、ゴルフ場や駐車場などに転用された上、周囲は宅地化が進んだ。もはや返還されても、競馬場に復活させることはできない状態になっていた1969(昭和44)年、ようやくアメリカから敷地の一部が返還された。結局、横浜競馬場は再建されることなく、跡地は、横浜市が管理する根岸森林公園と、日本中央競馬会所有の競馬記念公苑として整備された。1977(昭和52)年には馬の博物館が開館して、現在では横浜市民の憩いの場となっている。
1988(昭和63)年、老朽化のため二等馬見所とパドックは解体され、その後一等馬見所の庇部分も取り払われた。長年手を入れなかった一等馬見所も、損傷が進み、現在では立ち入ることさえ危険であるという。
馬の博物館
馬文化伝来の歴史から、絵画や彫刻などの馬の芸術まで、幅広い展示品がある馬の博物館は、森林公園に隣接する根岸競馬記念公苑内の施設である。模型を使って馬具のつけ方を習ったり、鞍を載せた馬のモデルに乗ったりすることもできるので、学外授業で訪れる小学校が多い。午前10時から午後4時30分までで、月曜は休館。入館料は大人100円、小・中・高校生は30円(ただし土曜日は入館無料!)。
ポニーセンター
馬場に放牧されているポニーやミニチュアホースを見たり、試乗したりすることができる。毎週土曜日の午後1時30分から約15分間は、楽しいにんじんタイム(馬に手で餌をやることができる)。試乗会は先着20名で、第3日曜日の午後1時30分から受け付ける。当日、馬の博物館に入館するのが条件で、事前予約はできない。