江ノ島の山頂にあるサムエルコッキング苑は、かつては最新式の温室を備えた東洋一の私的植物園であった。江ノ島の自然を愛したサミュエル・コッキング(Samuel Cocking)は、植物園を一般の人々に解放し、社会福祉活動や専門家の研究の場として提供するなど、植物園を公共のために活用した。
サミュエル・コッキング
1854(嘉永7)年に日米和親条約が締結されると、野心に満ちた貿易家たちが横浜港に押し寄せた。1869(明治2)年の春、28才で来日したコッキングも、そんな一人だった。しかしコッキングは、横浜で吹き荒れる尊王攘夷の嵐を避けて、仙台藩の経済の中心であった石巻港に入り、藩籍奉還で困窮していた武家屋敷から書画骨董を、廃仏毀釈で放出された仏教美術品を寺院から買い取ると、それらを輸出して財を成した。1870(明治3)年に横浜に移り、コッキング商会を設立してからは、医療機材や印刷用品など、西洋の最新技術の輸入にも力を入れた。1877(明治10)年以降、神奈川県では、外国から入ったコレラが度々流行した。この時コッキング商会が輸入していた石炭酸が、当時唯一の消毒剤として、県当局に買い上げられたことによって、その富は益々蓄えられていった。
江ノ島の別荘
1872(明治5)年、埼玉県出身の宮田リキと結婚。リキの家は酒造家であったが、兄が商売をたたんで横浜に出てきていたのが縁だったようだ。1880(明治13)年頃、コッキングは江ノ島に500坪の土地を取得した。28才で相模湾に入港した時、偶然に江ノ島を目にしてその美しさに魅了されてから、10年余が過ぎていた。当時は外国人の土地所有が認められていなかったため、コッキングは妻リキの名義で土地を購入し、別荘を建てた。そして、ウィークデイは横浜で仕事を、ウィークエンドは江ノ島で趣味の時間を楽しんだ。1882(明治15)年には、さらに江島神社の菜園3200坪を買い取り、植物園の造営を開始した。1889(明治22)年までには、給排水施設や暖房管理施設の付属する4棟の温室、洋式シンメトリックの大池、築山や幾何学デザインの花壇、菖蒲池などができあがっていた。
当時の新聞や雑誌によれば、コッキング植物園は本格的な施設で、植物学者や観光客など、多くの人々が訪れていたようだ。コッキング自身も、英国の植物学雑誌The Gardenに日本の植物を紹介する論文を寄稿するなど、専門的な植物研究を行っていたと見られる。
晩年のコッキング
晩年、コッキングは突然の不幸に見舞われる。1906(明治39)年、イギリスの銀行に預金していた莫大な資産が、銀行の倒産によって引き出し不能に陥ったのである。資金繰りに窮したコッキングは事業を整理し、横浜の商館も手放した。しかし、江ノ島の植物園は、最後まで彼の心の糧であった。1907(明治40)年の横浜貿易新報の記事には、植物園に保育園の園児や孤児たちを招いて園遊会を催したり、地域の社会福祉活動に植物園を提供したりしたとある。1914(大正3)年、コッキングは横浜の自宅で心筋梗塞を起こし、73年の生涯を閉じた。コッキングが亡くなると、植物園は人手に渡り、彼が手塩にかけた庭園や温室は荒廃した。34年間、所有者は転々と変わり、そこに追い討ちをかけるように、1923(大正12)年の関東大震災で、温室の上屋は全壊、池は埋もれ、花壇も破壊された。現在残っている煉瓦作りの基礎や地下通路などは、藤沢市によって整備され、不定期に公開されている。見学用デッキの上から見えるのは、その一部である。
コッキングの墓
1914(大正3)年2月26日、コッキングは横浜市平沼の自宅で亡くなった。葬儀は横浜元町の増徳院で行われ、日本人関係者約200名、外国人20名が参列した。増徳院は現在の元町プラザのところにあったが、関東大震災で倒壊し、1928(昭和3)年、横浜市南区平楽に移転した。コッキングは増徳院墓地の宮田家の墓所に眠っている。
亀ヶ丘公園
コッキング苑の向かいに、亀ヶ丘公園という小さな公園がある。この公園の場所に、かつてコッキングの異人屋敷(別荘)があった。屋敷は1949(昭和24)年に売却されてしまったため、その姿を見ることはできないが、チーク材でできた堅牢な家だったという。海側は断崖絶壁になっていて、太平洋に開けたすばらしい眺望であったと思われる。隣の展望デッキにのぼれば、コッキングが別荘から見渡していた水平線を見ることができる。140余年前、この海を越えて日本にやってきた青年が、江ノ島の山頂を花で埋め尽くしたのだと思うと、何か感慨深いものがある。
1909(明治42)年、コッキングは横浜貿易新報社の横浜開港側面史に寄せてこう語った。
『私し商売嫌ひで十五年前に止めました。』
成功したビジネスマンが、晩年に吐いた言葉は悲しい。だからこそ、江ノ島でのコッキングが、遠い祖国に続く海を眺めながら、花と草木に囲まれて、穏やかで幸せな時間を過ごしていたと信じたい。