鎌倉 円覚寺の春

波涛を越えた中国僧 2 無学祖元

13世紀、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた元(蒙古、またはモンゴル帝国1271-1368)は、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二度に渡り、日本侵攻を試みた。鎌倉幕府は九州北部でこれを迎え撃ち、辛うじて元の侵略を食い止めたが、二度の戦いにより多くの命が失われた。鎌倉・円覚寺は、戦死した両国の兵士の霊を弔うために、1282(弘安3)年に創建された禅寺である。開基の鎌倉幕府八代執権・北条時宗は、南宋から禅の偉僧、無学祖元(むがくそげん)を迎えて開山とした。無学祖元は、懇切な指導法で知られ、時宗をはじめ多くの鎌倉武士の信仰を集めたといわれる。

円覚寺の桜

円覚寺境内には桜の大木が多い。特に三門前の桜は、荘厳な門に見合う堂々とした枝ぶりである。門のそばのベンチは、ゆっくりと花を堪能し、午後の陽射しを楽しむ人々の特等席だ。お花見には、ここが一番の人気スポットであるが、もう一つ別の場所をご紹介したい。境内を奥に進み、居士林を過ぎると、左に入る小道がある。19ある円覚寺の塔所の一つ、寿徳庵に続く道だ。丘の上に立つ寿徳庵の庭からは、仏殿と三門を眼下に収めることができる。薄紅色の枝垂れ桜の花の間から見る円覚寺の鳥瞰図は、私のとっておきの眺めである。

無学祖元

無学祖元は1226(嘉禄2)年、南宋(明州慶元府)に生まれ、11才で出家した。1275(建治元)年、浙江省の能仁寺で修行中に、g元(蒙古)兵の乱入に遭う。他の僧たちは逃げ散ってしまうが、無学祖元は一人、本尊の前に端座して動かなかった。元(蒙古)兵が剣を振り上げて、その首を刎ねようとしたところ、静かに偈を唱えた。

『乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし

 喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを

 珍重す、大元三尺の剣

 電光、影裏に春風を斬らん』

『真実を知りたいと強く願い、天地を求めて修行に励んだ。そしてついにわかった!地には一本の竹の杖を立てる場所もない。人は空であり、仏法もまた空なのだ!蒙古の兵士よ、切りたければ、その見事な剣で私を一刀両断にするがよい。だがそれは、所詮、春風を切るがごとく、空を切るに過ぎないが。』(筆者意訳)

これを聞いた元(蒙古)兵は、無学祖元の悟りの深さに感動し、振りかざした剣を鞘に収めて、その場を去ったという。

北条時宗の悟り

数度に渡る元からの蝶状に対し、日本は一度も返蝶をしなかった。外交権を有する朝廷と、防衛の担い手である鎌倉幕府との意見が一致せず、返蝶なしの方針が取られたためである。北条時宗は、そのような時運に執権に就き、難しい決断を迫られた。朝廷には和親論があり、幕府内も進撃派と防衛派に分かれるなど、国内の意見は分かれていた。戦になれば、何よりも精神的な結束が必要になる。考え抜いた末、時宗は防衛策に心を決めて、九州各地に御家人たちを配備した。そして一度目の襲来は、何とか食い止めることができた。だが、元軍はやがて再来するにちがいない。

九州では、防衛にあたる御家人たちの緊張と苛立ちが数年続いた。遠征して逆襲せよとの声も上がった。時宗は意見の取りまとめに腐心した。だが結局、博多湾に沿って石築地を作るなど、今度も専守防衛の策を取ることに決定した。

先の侵攻から7年後、対馬に、元の支配下にあった高麗軍が上陸して来た。続く元軍は総勢4400艘14万人という大部隊。博多の海上を埋め尽くした。しかし湾岸に張り巡らされた石築地によって、元軍は容易に上陸することができない。沿岸でのせめぎ合いが続いた。そして、戦いの最中に大暴風雨が襲う。元の兵船の大部分は転覆、座礁し、一晩のうちに壊滅状態となった。

味方不利の情報を得ていた時宗は、この勝報が入る前、元軍が瀬戸内海に入った場合の策を講じていた。焦燥する時宗は、建長寺にいる無学祖元を訪ねた。しばらく雑談をした後、無学祖元は筆を取って、時宗を一喝した。

『莫煩悩(ばくぼんのう)』

「煩悩する事なかれ。迷い、憂え、悩み続けても、唯一最良の解決法を得ることはできない。(いろいろな選択肢はあっても)今、自分が現状の最善策だと思うことに心を定め、(一度決めたなら)動じることなく進め。」

時宗は、無学祖元から与えられたこの言葉を受けて、たとえ九州が陥落しても徹底抗戦をすることに腹を決めた。

だがその直後、時宗の元に勝利の報が届いたのである。

無学祖元は、弘安の役の直後、南宋への帰国を望んだ。しかし、時宗の熱意に押されて円覚寺の住持となることを承知した。円覚寺では、懇切丁寧に弟子たちを導き、高峰顕日天岸慧広、尼僧の無外如大など、優れた弟子たちを輩出した。桜舞う円覚寺を歩きながら、無学祖元と北条時宗、かつて二人は、この国の未来について、どんな話をしたのだろうかと思った。

シリーズ:波涛を越えた中国僧

このシリーズでは、大陸から日本に渡ることが命懸けだった時代、仏教を通して、日本の文化形成に多大なる影響を及ぼした6人の中国僧をご紹介していきます。

1 鑑真和上(がんじんわじょう668-763): 奈良 唐招提寺

2 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう1213-1278):鎌倉 建長寺

3 無学祖元(むがくそげん1226-1286):鎌倉 円覚寺

4 一山一寧(いっさんいちねい1247-1317):伊豆 修善寺

5 隠元隆琦(いんげんりゅうき1592-1673):宇治 萬福寺

6 東皐心越(とうこうしんえつ1639-1696):栃木 大雄寺

詳細情報

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