伊豆 修禅寺の夏

波涛を越えた中国僧 4 一山一寧

伊豆半島はかつて、太平洋に浮かぶ、フィリピン海プレート上の海底火山群であった。約60万年前、その火山群は北上し、ついに本州に衝突して半島となったのである。こうしてできた伊豆半島のほぼ中央に、修善寺温泉は位置する。807(大同2)年、34歳の時にこの地を訪れた弘法大師空海が、持っていた独鈷杵(とっこしょ:密教の法具の一つ)で岩を打ち砕いて噴出させたのが、温泉場の起源であると伝えられる。後に空海が創建した真言宗の寺は、中国からの渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、このシリーズの2に登場)によって、鎌倉時代に臨済(禅)宗に改宗され、伊豆修禅寺として、北条氏の庇護を受けて興隆した。

修禅寺

掃き清められた境内に足を踏み入れると、ピンと背筋が伸びるような、心地よい緊張感を感じる。山門を入ってすぐ左手には鐘楼、右手に手水舎、正面に本堂。その本堂の手前に、『だるま石』という大きな丸石がある。強い目力と悩み深そうな表情に、思わず視線がくぎづけになる。聞くところによると、この石は江戸時代に発見され、修禅寺に奉納されたのだそうだ。達磨は5-6世紀を生きた南インド出身の僧で、禅宗の開祖と伝えられる。520年頃に中国に渡り、梁の武帝に迎えられたが、問答の末、「梁には縁がなかった」として北魏に去る。後に、面壁9年と言われたように、洛陽郊外の嵩山少林寺で「何ものにも動じない境地で真理を観ずる」修行を九年の間行った。射るようなまなざしと、手足のない丸い体を強調した『だるま石』は、峻烈な修行をした達磨の精神を映しているかのようだ。

一山一寧

一山一寧(いっさんいちねい)は中国・元王朝(1271-1368)の使者として来日した渡来僧である。1247(宝治元)年に現在の浙江省台州地区に生まれ、律、天台を学んだ後に臨済禅に転じて嗣法し、補陀落山観音寺の住職となった。この頃、元は日本を属国にすべく、何度も使者を送るが、鎌倉幕府は悉くこれを切り捨てていた。二度の遠征(元寇)も失敗したため、元の皇帝・成宗(クビライ)は、ついに一計を高じた。日本は、崇敬の念を持って中国の禅僧を受け入れる。そこで使者には、人格的に優れた高僧を選んで国師号を与え、渡日経験のある随身をつけることにした。白羽の矢があたったのは、一山一寧と随身の西澗子曇(せいかんすどん)であった。

1299(正安元)年、一山一寧は門人とともに太宰府に入り、成宗(クビライ)のもくろみ通り、鎌倉幕府の第九代執権・北条貞時(1272-1311)に国書を渡すことに成功した。重大な任務を終えた一山一寧は、日本で修行鍛錬を続ける許可を願い出たが、貞時は間諜目的の滞在ではないかとこれを疑い、伊豆修禅寺に幽閉した。だが、一山一寧は淡々と禅の修養に励み、日々の精進を続けた。それ見た僧俗は、次第に一山一寧の徳に感じ入り、教えを乞いに修禅寺に集まった。

建長寺に移った一山一寧

滞日経験があって日本に知己の多い西澗子曇らの働きかけによって、貞時は一山一寧の評判を耳にする。やがて貞時は、一山一寧の幽閉を解いて、自らも帰依するようになった。さらに、1293(正応6)年の鎌倉大地震で崩壊した鎌倉五山第一位の建長寺に一山一寧を招き、再建を依頼した。建長寺総門の扁額『巨福山』は一山一寧の揮毫と伝えられるが、「巨」の文字に点が一つ多い。建長寺によれば、その点があることで百貫の価値が添えられたというが、一山一寧の真意はどこにあったのだろう。筆の勢いか、ユーモアか、それとも考え抜いた末の渾身の一点か?

一山一寧が建長寺に入ったという噂が広まると、全国から入門希望者が殺到した。そこで、全員に偈頌(げじゅ:宗教的な境地を表現した漢詩)の試験を行い、上中下に選別した。一山一寧は、禅行以前の問題として、仏教者としての自覚と最低限の教養を重視し、このような選考方法を用いたと言われる。ちなみに、世界遺産の京都・西芳寺や天龍寺の庭を作庭した禅僧・夢窓疎石も、この偈頌の試験を受けて入門した一人で、上科二名のうちの一人だった。

さて、その夢窓疎石は、建長寺で綿密な修行に励むが、わずか三年で一山一寧のもとを去った。夢窓疎石は経文や書冊からは徹底することができず、悶々と苦しんだ末、一山一寧に問いを試しみた。が、『我が宗に語句はなく、また一法の人に与うることなし』と跳ね返されてしまう。夢窓疎石は、自分の語学力がつたないため、突き詰めた質問ができなかったと考え、無学祖元(むがくそげん、このシリーズの3に登場)の弟子・高峰顕日のもとへ向かった。高峰顕日は、一山一寧の答えを聞いて、夢窓疎石に言った。『お前はすでに、答えをもらっているではないか。我が宗に語句はなく、つまり言葉で表現できるものではないのだから、経文の一字一句にこだわるな。というのが一山一寧の解だ。しかし・・・そうは言っても、おまえはなぜ、「和尚とてこれまで語句で私を導いてきたではありませんか!」と反問しなかったのだ?』と。

一山一寧は、高い教養と芸術的センスを身につけた禅僧であったが、建長寺の扁額『巨福山』に、点を一つ加えるような新種の気質もあったようだ。修禅寺の飛地境内、指月殿の額もまた、一山一寧の書である。マル文字風の「月」には、春の月を思わせる穏やかさと優しさが感じられ、これもまた一山一寧の一面を表しているのかもしれないと思った。

シリーズ:波涛を越えた中国僧

このシリーズでは、大陸から日本に渡ることが命懸けだった時代、仏教を通して、日本の文化形成に多大なる影響を及ぼした6人の中国僧を紹介していきます。

1 鑑真和上(がんじんわじょう668-763): 奈良 唐招提寺

2 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう1213-1278):鎌倉 建長寺

3 無学祖元(むがくそげん1226-1286):鎌倉 円覚寺

4 一山一寧(いっさんいちねい1247-1317):伊豆 修善寺

5 隠元隆琦(いんげんりゅうき1592-1673):宇治 萬福寺

6 東皐心越(とうこうしんえつ1639-1696):栃木 大雄寺

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