1853(嘉永6)年7月8日の午後4時過ぎ、巨大な蒸気船2隻と帆走軍艦2隻が浦賀沖に錨を下ろした。警備に当たっていた浦賀奉行所の役人は、慣例に従って長崎への回航を求めたが、旗艦はそれを拒否し、臨戦態勢で日本を威嚇した。やがて艦隊の降ろした小艇が、三浦半島の沿岸を北上し、観音崎から猿島、羽田沖へと測量を進めていった。
ペリー上陸
江戸幕府は、アメリカ艦隊の到来を知り、ついに覚悟を決めた。実は、この日が来ることは、かねてよりオランダから勧告されていたのだ。浦賀奉行から想像以上の強硬姿勢を伝え聞くと、幕府はアメリカ大統領の親書受取りを了承せざるをえなかった。場所は、人目の少ない浦賀の西、久里浜港に決まった。
7月14日朝、蒸気船から13発の祝砲が放たれた。空に轟音が消えたあと、軍楽隊が演奏するマーチに合わせて、小艇から続々と兵隊が降りてきた。海兵隊のゼイリン少佐がサーベルを抜いて先頭に立ち、制服を着用して完全武装した海兵隊、水兵、軍楽隊、陸戦隊、親書を持った少年兵の順に、総勢約300名が一糸乱れぬ行進をして上陸した。日本側は完全に圧倒されてしまった。そして、この勇壮で美しい光景は、浦賀奉行所の役人たちの目を釘付けにした。アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーは、補佐するアダムス参謀とコンティ副官とともに、久里浜に日本上陸の一歩を刻んだ。
親書の受け渡し式は、久里浜港の仮設応接所で行われ、両者無言のうちに、わずか30分で終了した。ペリーはその後、艦隊4隻を率いて針路を北に取り、さらに測量をしながら江戸湾深くに侵入した。そして、江戸の街を遠望できる位置まで達すると、海岸線に集まった江戸庶民に、蒸気を吐く黒船を見せつけてから、悠々と引き上げていった。
ペリー公園
久里浜の仮設応接所が設置された場所は、海岸から道を隔ててすぐであり、ペリー公園として整備されている。久里浜の海の景色は、恐らく、ペリーが見たものと大きくは変わっていないのではないだろうか。静かな砂浜、その先には大海原が開けている。公園の中央にはペリー上陸記念碑が建ち、英語と日本語でペリー来航の地であることが書かれている。右手奥にある記念館の1階にあるジオラマは、静かだった久里浜港に、突然黒船がやってきたときの様子を示している。2階はペリーの個人的な資料があり、ペリーが娘に当てて書いた手紙などが展示されている。文面からは、任務遂行中、遠く離れた家族を気遣う、ペリーの親心が伝わってくる。
横須賀自然人文博物館
久里浜のある横須賀市では、横須賀自然人文博物館(横須賀中央駅から徒歩10分)にも、ペリー来航時の資料を展示している。ペリーが久里浜に上陸した際、水をくれた近隣の住民に、お礼として贈った鍋や、青年期のペリーの写真など、他では見られない展示品がある。
司令長官ペリーの戦略
蒸気船の登場によって、欧米列強の東南アジア進出が加速する中、アメリカはいち早く日本に注目していた。当時、太平洋を横断する航路は確立されておらず、ペリーもアメリカ東海岸ノーフォークから、蒸気船ミシシッピー号で出航し、大西洋を横断してケープタウンを回り、インド洋経由で香港に入った。その後、蒸気船サスケハナ号、帆走軍艦サラトガ号、プリマス号と合流して日本を目指した。
ペリー出航の7年前、1846(弘化3)年に浦賀に来航した東インド艦隊司令長官ジェームス・ビッドルは、日本に開国を要求したものの、日本ののらりくらりとした外交戦術に見事にはまって、成果のないまま帰国していた。
1852(嘉永5)年1月、マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は海軍長官から、東インド艦隊の指揮を執る準備をせられたし、という電報を受け取った。翌2 月に辞令が下りて、正式に司令長官に任命されたペリーは、日本開国に向けて綿密な戦略を練った。まずオランダに大金を支払って日本近海の海図を手に入れ、鎖国下の日本に関する著作を集めた。ペリーはドイツ人医師、エンゲルベルト・ケンペルのHistory of Japanを繰り返し読み、また、シーボルトや、ゴローニン大尉、タルボット・ワッツ、シャルルボワ、マクファーレンなどの記録を熟読して、日本の地理、歴史、慣習、および日本人の思想などを徹底的に学んだ。その結果、日本人には友好よりも、恐怖に訴えるほうが交渉の利点が多いと判断した。ペリーは大艦隊を率いて日本に赴き、近代国家の軍事力を見せつけて開国交渉を行うというプランを上申した。
ペリーの戦略が奏功したことは周知の事実であるが、次項では、日米和親条約締結のために再来した、ペリーの2ヶ月間を追ってみたい。ここでペリーの周到な計画が、粛々と実行に移されていく。