旧横浜競馬場 一等馬見所

異人たちの足跡 11 J.H. モーガン

Tomoko Kamishima   2012/10/04によって

横浜の根岸森林公園の一角には、不思議な建物がある。春から夏にかけては建物の1/3が蔦に覆われ、わずかに突き出た三つの塔が、周囲にただならぬ気配を漂わせるのだ。しかし近づくと、洗練された建物の外観に、一瞬驚きの声をあげる人も多い。鮮やかな緑色のカーテンに隠れていた、アーチ型の窓や装飾された美しい壁が、ここに秘められた歴史を想像させてくれるからだ。やがて蔦はすっかり枯れて、冬の間はグレーがかった廃墟のような建物が、その全容を現す。角形の三つの塔は、空に向かってすっと伸び、装飾を施した大きめの丸窓が各々二つずつ、四方についている。塔の下方は連結して灰色の壁が基部まで続いており、その外壁には、かつては明かり取りの窓だった格子型やアーチ型の輪郭が、内張りをされて光を閉ざしている。重量感のある角張った塊。この建物の周囲は現在、ぐるりとフェンスに覆われて、立ち入ることはできない。建物の西と北にある広い芝生の庭から、子供たちの遊ぶ声と、犬の散歩に来る人たちの軽快な足音が聞こえるだけだ。

旧横浜競馬場

この華麗な廃墟は、かつて横浜競馬場の一等馬見所であった。1929(昭和4)年にアメリカの建築家J.H. モーガン(Jay Herbert Morgan)が設計し、大倉土木(現大成建設)が施工した。依頼したのは、日本レース・クラブの会頭、ステーツ・アイザックス(States Isaacs)である。1923(大正12)年の関東大震災で大きな被害を受けた競馬場には、旧スタンドに代わる新しいスタンドが必要だった。アイザックスは、多くの注文を付けた。地震に強く、仕様は格調高く、左右のコーナーを楽に見ることのできる、機能的に優れた馬見場。アイザックスの豊富な競馬経験から来る細かな要望と、モーガンの緻密な設計力が結晶したのが、ここ、根岸にある横浜競馬場の馬見場であった。

一等馬見場は4500人、二等馬見場は1,2000人を収容する鉄筋コンクリート製の建物であった。以前のスタンドは、木造の箱形建物の前面に、わずかな階段状の観客席をつけたものが主流で、収容人数は限られていた。また観客席には多数の柱が立ち、観客は白熱するレースを見ながら、体をあちこちに動かして、大事な場面を見逃すまいと必死だった。モーガンは、関東大震災の経験から、屋根に重量をかけない構造を提案し、建物内部の支柱を減らすことに成功した。このため、観覧席からは、トラックのコーナー部分までよく見渡せるようになった。また、庇を大きくせり出して、前面の壁を取り払い、建物をオープンな状態にした。この斬新なデザインによって、より広い空間を観覧席にすることが可能になった。さらにエレベーター三基を塔の部分に設置して、この時代の最新の設備を備えた一等馬見所が完成した。これらモーガンの工夫は、非常に好評で、以後全国の競馬場で採用されるようになった。

一等馬見場の最上階中央には貴賓室が置かれていた。室内はゆったりとした和洋風で、高い格子天井には、一つ一つに格調高く鳳凰が描かれた。ちなみに、一等馬見場の入場料は5円、二等が3円で、馬券は20円の単勝、複式の一枚ずつしか買えず、最高配当は200円だった(一流旅館の宿代が3円の時代!)。また一等馬見場に入ることができるのは、正装をした成人に限られていた。

J.H. モーガン

モーガンは1920(大正9)年に、当時アメリカ最大の建築施工会社フラー社の主任建築士として、東京の丸の内ビルディングの建設のために来日した。丸ビル全体の設計は桜井小太郎が担当し、アーケードやエレベーターホール、階段の鉄製装飾など、装飾性の高い部分にモーガンが携わった。モーガンは設計者の意図を汲みながら、実際の施工に適した意匠と仕様を施すという、丸ビルの格調を高める重要な部分を担った。

日本人女性との出会い

来日直後のモーガンは、しばしば、東京ステーションホテルのレストランにいた。ある日、友人を待ちながら英語の本を読んでいた石井たまのに、モーガンは声をかけた。この時、モーガンは51才、たまのは22才であった。二人は恋に落ち、やがてモーガンは日本に留まることを決意した。その記念と思われる日光旅行の写真があるという(1990年横浜新聞)。2年後、丸ビルが完成すると、モーガンはフラー社を退職して、日本郵船ビル内に建築事務所を立ち上げた。ジャパン・ディレクトリーには、モーガンの事務所に「セクレタリー、T.イシイ」とたまのの名が掲載されている。

1923(大正12)年9月1日、モーガンはビル上階の歯科医院にいた。突然の大きな揺れに驚く間もなく、ビルには大きな穴が開き、下方から火の手が上がった。人々の悲鳴と怒号が鳴り響く中、モーガンは必死に身を守って避難したという。恐怖の体験を切り抜けたモーガンに、離日の二文字は浮かばなかった。モーガンはすぐに、震災後の復興に向けて、猛然と仕事を開始した(山手111番館)。

Tomoko Kamishimaさんによって書かれました。
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