横浜 ジェラール水屋敷

異人たちの足跡 3 アルフレッド・ジェラール

Tomoko Kamishima   2012/08/20によって

ある日、横浜元町のショッピングストリートから山手に向かう脇道を歩いていたわたしは、偶然にジェラールの水屋敷に出くわした。初めてこれを見た人はきっと、わたしと同じ気持ちになるだろう。『これはいったい何なの?』

住宅街のど真ん中に、それは唐突に現れた。家一軒分のほどの広さの土地に、四角く仕切られた池のようなものが掘ってあって、金属製の手すりが張り巡らされていた。水面は低く、中に、煉瓦でできた柱が、10本ほど等間隔に立っていた。地面からは2-3mの深さがあるように見えた。階段を下りて、中央に設えてあるデッキまで行くと、水際に近づくことができた。かがんで中を覗き込んでみた。水中には赤や白の錦鯉が泳いでいる。しかし、それは池というにはあまりにも素っ気なかった。

給水施設

200年以上続いた鎖国が解かれると、開港地横浜には、毎日外国船が忙しく出入りした。瞬く間に商館が建ち並び、盛んに物と金と人が行き交った。山下居留地は、海岸を埋め立てて造成された商業区域として、1863(文久3)年頃には完成していた。外国人が居住するようになると、居留地には生活に必要な様々な店ができ始めた。銀行に、レストラン、パン屋、八百屋、酒屋など、外国人向けの商品を取り扱う店が増えていった。だが、山下居留地では、最も必要なものが最も手に入りにくかった。水だ。井戸を掘っても、水は塩分を含んでいて飲み水には適さなかった。飲料水は、日本人の水屋が売りにくるのを待たなければ買えない貴重なものであった。

1867(慶応3)年、外国人居住者の増加に伴って、山手地区200区画が住宅地として居留地に編入され、競売された。この瞬間を見逃さなかった人物がいる。フランス人貿易商、アルフレッド・ジェラール(Alfred Gérard)である。ジェラールは山手の良質な湧水の水源を確保し、給水業を始めた。

ジェラール水屋敷

1868(明治元)年、中村字池ノ谷戸(現在の横浜市中区打越)に水源を確保したジェラールは、そこから山下居留地168番(後に188番に地番変更)のジェラール商会までパイプを通して、山下居留地を対象に給水を開始した。1870(明治3)年までには山手77番、78番に新たな水源を得て、堀川(現在橋梁の上を首都高速が走る)までパイプを通し、堀川の川岸から小舟に積み替えて、横浜港に寄港している船舶に給水を行った。

ジェラール水屋敷として残っている地下貯水槽の外寸は幅7.8m、長さ11.6m、高さ3mで、煉瓦とコンクリートでできている。6カ所ある配管は、土管と鉄管を使用していた。周囲の山からの湧水は、上部貯留槽(現在の元町公園プールの入口地下)に一分間に50リットル流れ込み、水位が1mに達すると下部貯水槽(ジェラール水屋敷)に流出するようになっていた。ここで集水と異物の沈殿除去が行われ、濾過された良水が供給できたと思われる。明治時代、船乗りたちの間では、『ヨコハマの水はインド洋に行っても腐らない』という評判を呼んでいたという。

ジェラール西洋瓦・煉瓦製造工場

山手77番の同じ住所に、大きな煉瓦作りの工場が立っていたことを示すイラストが残っている(1886(明治19)年発行の日本絵入商人録)。外壁の文字からジェラールの西洋瓦と煉瓦の製造工場であることがわかる。つまり、地下には貯水槽、上屋には建築用材の製造工場があったわけだ。内部には、蒸気機関で動くベルト付の機械類が並んでいる。瓦は職人が一枚ずつ手作りしていた時代に、ジェラールの工場では、すでに機械による大量生産を行っていたわけである。現存する瓦では、1873(明治6)年製の刻印があるものが最も古い。同じ頃、山下居留地188番地(旧168番)には最初期の煉瓦建築の一つであるジェラール・ビルが建築された。ジェラール・ビルは、ジェラール商会のオフィスであると同時に、ジェラールの瓦と煉瓦を宣伝するショールームでもあったようだ。

アルフレッド・ジェラール

1837(天保8)年にフランスのラーンス(パリの北東135km)で、パン屋の一人息子として生まれたジェラールは、母が病弱だったため、13才頃まで父方の祖父母の家で育てられた。14才で両親の元に戻り、衣類や羊毛製品の製造工場で職工として働き始めた。しかし母の健康状態が思わしくなかったため、父はパン屋をたたんでラーンス近郊の村ブザンヌに移ってしまう。ジェラールは父の命で、一人ラーンスに残り、職工を続けた。21才で退職し、ワイン商人である母方の叔父のもとで働き始める。伯父のフェレルベは、近隣各国にフランスワインを卸す国際商人であった。この伯父の後見のもと、ジェラールはイギリスに2年、ドイツに1年滞在し交易の実務を身につけた。その間に母は亡くなり、父は再婚する。

1863(文久3)年の夏、26才になったジェラールは横浜港に降り立った。ジェラールは初め、山下居留地168番(後の188番)で小麦粉やシャンペン、ソーセージなどの小売業をしていたようだ。1864(元治元)年のThe Japan Heraldに出ている広告がそのことを裏付けている。その後、給水業に転じて1870(明治3)年に山手77番を確保すると、地下には貯水槽、上屋には蒸気式の西洋瓦と煉瓦の工場を建て、その工場敷地内に自宅を持った。そこからジェラール自身は、山下居留地168番のジェラール商会に通勤していたと考えられている。なお、1864(元治元)年原板の横濱明細全圖(師岡屋伊兵衛)によると、168番は2012年現在、横浜中華街の関帝廟通と南門シルクロードの交わる辺り、横浜大世界の向かい側にあたる。

ジェラールは、1878(明治11)年、41才で日本を離れた。次項では、ジェラールの水屋敷跡に作られた元町公園と、離日後のジェラールについて見ていきたい。

Tomoko Kamishimaさんによって書かれました。
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