丸岡城は福井越前の領主柴田勝家の甥勝豊が築き初代城主となった。だが、織田信長が本能寺の変で殺害された後の有名な清洲会議(1582)で勝豊が配置換えになると、勝家は勝豊の実父、安井家清を次の城主とした。しかしこれもまた豊臣秀吉と勝家の衝突で短命の定めだ。信長の後継者に収まった秀吉に対し、同じ信長の忠臣であった柴田勝家は秀吉のその後の継承路線に違和感を覚えていた。「秀吉め、口では信長を奉っているが、実のところは信長公の遺産を我が物にしているだけだ。信長公のご家族縁者はどうだ。飾り物以下ではないか。」会議の翌年、勝家は秀吉との賤ヶ岳の戦いで滅ぼされ、勝家の勢力は福井越前から一掃された。
戦後、織田信長の忠臣であった丹羽長秀が越前の領主となると、長秀は娘婿の青山宗勝に丸岡城に住まわせ、暫くは平穏が続いた。が、関ヶ原の戦い(1600)で、運命のさいころはまたまた大きくごろりと転がって行く。秀吉の忠臣の青山家は当然のことながら豊臣勢の西軍につくも、敗れて徳川家康の軍門に下ることとなる。家康は秀吉に養子に出していた次男の結城秀康を戻し、越前に入封(土地を与えられその領土に入ること)させた。秀康は福井城に入り、家臣の今村盛次を丸岡城の主としたのである。ところが、この丸岡という小さな領土にこの後福井越前を二分するような大騒動、「越前騒動」(1612)が起こるのである。端緒は些細な蟻の一穴であった。
江戸初期、丸岡にあるとある小さな村から、ある娘が別の村の男の元へ嫁いだ。その嫁ぎ先の家は赤貧を洗う暮らしぶりである。止む無く佐渡の金山へ出稼ぎに行った夫であるが、行ったまま音信はぷつりと途切れてしまった。「あん人、死んでしまったのやろか、もう一人でここにいても仕方がない。」そう思った娘は実家に戻り、まもなく別の男と再婚をした。ところが、ある日前夫がひょっこりと佐渡から戻ってきたのだ。「わしの嫁はどこにおる?」と怒鳴りこんできたその男は嫁が再婚していたことを知るとさらに激高した。「再婚のことなんぞ、わしゃあ聞いておらんぞ。」と男は暴れまくった。しばらくしてその女の新しい夫が殺害された。それを聞き及んだその村の領主、久世但馬守は前夫の村の領主、岡部自休の差金だと勘ぐる。「あやつめ、自休。この落とし前はきっちり付けさせてもらうぞ。」久世は家臣に命じて前夫を斬り殺した。それを知った自休は、自領の農民を殺されたとしてお上に訴え出たのである。ところが、権力の根っこは下から上へと繋がっているのが常だ。福井越前藩祖の秀康が死去するとその息子忠直はわずか13歳で後を継いだ。その家臣で筆頭家老である本多富正と丸岡城主今村盛次、これが両名とも反りが合わない。その今村の耳に家臣から情報が寄せられた。「親方様、家老本多様は丸岡の久世と親しくしていますぞ。」今村は、「本多め、あの百姓殺害事件を利用して丸岡に乗り込んでくるかもしれぬ。そしてわしを改易させるつもりだろう。そうはいかぬ。」岡部自休の直訴は、福井藩の家老本多と今村が評定することとなった。他の家老も全員大広間に揃っている。ここで本多は久世に同情的な意見を述べた。これを隣に座って聞いていた今村はますます本多をいぶかった。他の家老たちも本多派、今村派に二分され、議論は長期化しまとまらない。ついには江戸の家康のところにまで上がっていかざるを得なくなったのだ。江戸城の家康の前に、本多、今村の両越前藩家老が召喚された。最初は本多が詳細な事実を開陳した。次に今村の番である。今村はひげをたくわえたがっしりとした大男で、その声は低く朗々と広間に響き渡った。弁も立つ。理路整然と展開する話術は見事であった。本多富正の額にはうっすらと脂汗がにじみ出ていた。広間に同席していた幕府の諸家老たちに「大勢は今村の勝ちで決したな」とひそひそと小声が漏れていた。その今村の弁論が終わるや、家老本多正信は富正の形勢不利を察知した。正信と富正は親しい血縁ではないが同じ本多家の系譜にある。家康をずうっと支えてきた筆頭家老、正信は、「本多富正殿、ご持参の書面をお出しなされい。」と低い声で促した。その書面には、今村丸岡領が幼い秀忠を丸め込んで丸岡に必要以上の金を出させている、秀康治世下で配流(左遷)となっていた今村一族の者が無許可で舞い戻っている等、今村の家老としての過失がるる述べられていた。家康はそれを聞き、「今村、どういうことじゃ。述べよ。」と言うと今村は、「それは忠直殿がまだご幼少である故に。」とつい口を滑らせた。宙にあった家康の視線がすうっと自分の眼に集まり、射抜いたのを今村は見逃さなかった。言った瞬間今村は「ちっ、しくじった。」と心で呟いた。忠臣たるもの、主を立てこそすれ責任転嫁などもってのほかである。わずかな一言で運命はいとも容易くひっくり返る好例だ。拠って、家康の命により、今村は家老免職のうえ磐城平(現福島県)鳥居家へ預かりとして事実上の左遷。今村配下の越前家老達も一切が全国散り散りに左遷された。岡部自休も能登に島流しとなった。一方富正派誰もお咎め無しである。家康は、富正を管理不行き届きで厳しく叱責するものの、「だが、その忠義は誠にあっぱれである。今後も主君、忠直をますます盛り立て仕えよ。」と賞賛激励した。
福井県坂井平野の東端の小高い丘に立つ丸岡城。現存する天守閣としては日本で最古の建築様式を持つ平山城である。観光バスから降り立った婦人たちが談笑しながら天守閣への石段を登って行く。早春の日差しはまだ弱いが、小枝に吹く芽はまもなくの桜吹雪の準備に余念がないと見え、つややかに陽に照っている。