福井市に住んでもう4年になるが、今まで一度も嶺南と呼ばれる福井県南部地方を探索したことがなかった。今回、真面目に観光目的で訪れてみようと思い立ち、まず敦賀に行ってみることにした。敦賀を選んだ理由は簡単だ。自分が住む福井市に一番近い嶺南地域だからだ!
敦賀という名前を聞けば、まず第一に思い浮かべるのは、この町に存在する2つの原発だろう。しかし敦賀は、何も原発だけの町ではない。日本の長い歴史の中で北陸の要衝として栄えた一大都市なのだ。
敦賀と気比神宮の歴史
敦賀は若狭地方最大の都市だ。日本海に面し良港を有するこの町は、かつて朝廷のあった奈良や京都にも近い。この地理的利点から ( 国際的には朝鮮半島や中国東北部への玄関口、国内的には都への入口として) 敦賀は大いに栄え、朝廷はこの地域最大の気比神宮を (702年創設) 北陸を代表する神社として重要視し優遇した。
このように気比神宮はいにしえの時代から、越前国一宮 ( いちのみや) として隆盛を極めたわけだが、記事を書くに当たり神社の歴史を紐解いて私が最も驚いたのは、この神社の大宮司が、鎌倉時代後期の武士、新田義貞を支援して、金ヶ崎城を「建築」し、共に戦ったということだ。当時は神社仏閣が政治的、経済的、軍事的勢力を有していた時代なので、驚くにはあたらないかもしれないが、それにしても城を「建てる」とは、一体どれだけ金持ちだったんだ?! と、つい驚いてしまったのだ。金ヶ崎城が落城した後 ( せっかく建てたのに負けてしまった)、気比神宮の勢力・財力は衰微したが、それでも当時24万石の富を有したらしい。石とはご存知のとおり当時の経済力を図る指標だが、例えば江戸時代末期の福井藩の石高は32万石だった。ちなみに現在の福井県の年間予算はざっと5000億円だ。これを考えると石高24万石の気比神宮なら、山城の一つや二つ建てるのは訳もないだろう! 神宮境内には、1336年に新田義貞に味方した大宮司が、勝利を祈願して旗を掲げたという「旗掲松 ( はたかけのまつ)」が未だに残っている ( 写真参照)。南北朝時代の金ヶ崎の戦いについては、ジャパントラベルのこの記事をご参照頂きたい。
下記に、気比神宮の他の見どころについて挙げてみる。
大鳥居
8世紀の創設以来、戦火や火災のため気比神宮の建物は幾度となく焼失・再建を繰り返した。第二次世界大戦中の空爆で唯一焼け残ったのがこの大鳥居だ。神宮正門に聳え立つ、この木造の大鳥居は1645年に建てられた。高さ11メートルに及ぶこの鳥居、日本の木造鳥居の中で三番目の高さを誇っている。日本三大鳥居の一つにも数えられ、ちなみに他の2つは奈良の春日大社、そして広島の厳島神社の鳥居だ。国の重要文化財にも指定されており、鳥居に掛かった扁額は、有栖川宮威仁親王 ( ありすがわのみやたけひとしんのう) の筆によるものだ。
松尾芭蕉の銅像
江戸時代の高名歌人松尾芭蕉は、1689年にこの神宮を訪れ、2つの歌を遺した。
-- 名月や北国日和定めなき --
-- 月清し遊行のもてる砂の上 --
この訪問を記念して、境内の一角には芭蕉の歌碑と銅像が建っている。
長命水 (ちょうめいすい)
気比神宮を訪れる人の多くは、実はこの水目当てに来ているのでは? と、つい邪推してしまうのが、この霊験あらたかなパワー・ウォーターだ。境内に掲げられた案内板によれば、この神社の歴史は2000年にも及び (宮社創建以前の歴史を含む)、その間何世紀にもわたって、この「長命水」はこんこんと湧き続け、無病息災、長命に効能ありと地元の人々に信じられてきたという。気比神宮の大鳥居をくぐり真っ直ぐ進むと、中鳥居の手前片隅に、亀の口から水の出ている古い手水鉢がある。それが長命水だ!
気比神宮には、JR敦賀駅からコミュニティバスかタクシーで約4分、ゆるゆる歩いて15分で着く。神宮の他の情報や写真については、下記リンクからご覧頂ける。
気比神宮シリーズ
1. 敦賀の気比神宮: 福井
2. 華麗なる気比神宮: 敦賀
3. 敦賀、気比神宮の摂末社