紅葉は三紅葉という。
はしり、さかり、なごり。
春の桜吹雪よろしく、鮮黄の銀杏、真紅のなごり紅葉が舞い落ちる大沢の池のほとりを歩いた。
大覚寺の歴史は嵯峨天皇にまでさかのぼる。
時の平安時代は天皇が政治の最高実力権力者であった。
しかしその天皇とて独断では治世はままならず、当然のことながら参謀が大きな権力を持つことになる。
ここで登場してくるのが、この大覚寺物語の主役、正子内親王である。
嵯峨天皇の娘だ。
叔父である淳和上皇に嫁いだ正子内親王にしてみれば、父嵯峨天皇と夫淳和上皇が推す我が子恒貞親王が皇太子となり時期天皇になっていくことを母として願うのは当然であった。
一方、「わが孫、道康親王をなんとしても次の天皇にせねばならぬ。恒貞などに渡してたまるか。道康は嵯峨天皇の直系嫡流ぞ。」とは、嵯峨天皇のもう一人の娘、源潔姫を妃に持つ藤原良房。
妹順子を宮廷に訪ね、膝詰めで話す良房の瞳には、晩冬の侘助椿の落花に赤く染まる庭など映ってはいなかった。
彼の視線ははるか宙を泳ぎ、未来のわが藤原家の隆盛をしかと思い描いていたに違いない。
ところが歴史はここでごろりと大きく転がる。
840年淳和天皇が死に、842年に嵯峨天皇も重篤の病に伏せるのである。
すでに政権は義理の弟である仁明天皇に移っていた。
このとき恒貞親王に仕える伴健岑と橘逸勢は、恒貞が皇太子から降ろされそればかりか暗殺されると心配し、恒貞を東の国に移そうと画策した。
「なにとぞお力をお貸し下さい。」
と相談した相手が、しかしながら、日和見すぎた。相談を受けた阿保親王(嵯峨天皇の甥)は、
<わが身に火の粉が降りかかるのはごめんだ>
と、この顛末を嵯峨天皇の妻橘 嘉智子に打ち明けたのである。
嘉智子はこう出たらああなるというような政治の権謀術数の裏の裏まで読みきる女性ではない。
おっとりとした優雅な貴族ならではの女性だった。
従ってこの成り行きを悪気もなく良房に話すのである。
良房は即座に仁明天皇に上告。はたして、良房の描いた絵どおりに事は運び伴健岑は左遷、橘逸勢は流刑送致の道中殺された。
これを承和の変と呼ぶ。これによって恒貞が天皇になる芽は詰まれた。これにより、藤原良房は関白太政大臣としてますます政治の実権を強固にしていった。
これによって後の平安時代の華と呼ばれる藤原道長時代をもたらす基盤が固まったというのは誰もが知るところである。
大沢の池は花蓮が今は枯れて儚い。大覚寺の離れの縁側に座り、正子内は東の空に上がる上弦の月と池に映る月を交互に眺めている。
出家した正子内親王は今は亡き父、嵯峨天皇の離宮を大覚寺と寺に改め、息子恒貞を初代の住職にして、静かに余生を送ったという。
しかし、その後の彼女の心が大沢の池のように止水明鏡であったかどうかは知る由もない。