新島 襄。
明治維新という怒涛の揺籃期をわずか46歳余で駆け抜けた彼は、同志社大学の創立者である。
決して長いとはいえない生涯を教育のために捧げた。
そして私的には一人の女性を愛し抜いたのである。
妻、八重もまた時代の枠に収まらない大きな人であった。
江戸時代が終わり明治という新しい揺籃期にあって襄の眼も遠い外国を見やっていた。
函館から密航してアメリカに渡り、大学で学ぶチャンスを得る。
それらはすべて偶然にも出会った人たちの援助のおかげだ。
襄の生涯を見ると、つくづく人の縁の篤さに支えられているものだと思う。
それだけ彼の人柄が周りの人々をとりこにし、巻き込んでいったのであろう。
密航者であるにもかかわらず、彼はアメリカ大使になっていた森有礼に正式な留学生として認定してもらえた。
あまつさえ、その後にやって来る使節団の木戸孝充に襄の英語力を見初められて、ヨーロッパ歴訪に通訳として同行。
欧米で襄が学んだことは日本の教育の行く末に大きな果実となったのだ。
八重との出会いもそうした人の縁の紡ぎの上にある。
襄の描くプロジェクトへの支援者の中に、八重の兄がいた。
襄は八重の生き方の素晴らしさに惚れた。
襄の生涯は短いものであったが、彼は妻を深く愛した。とても仲睦まじかったようである。
その新島襄の旧邸が京都御苑東、寺町通沿いにひっそりと佇んでいる。
京都御苑へ向かって歩き、富小路通を上がる。
御池通を渡り、京都地裁を過ぎると、丸太町通の向こうの深い緑の木立が御苑だ。
御所は御苑の中にある。だから正確には御苑と呼ぶのが正しい。
新島旧邸。
空には明るい春の光があふれている。
コロニアル様式の和洋折衷。
和魂洋才の彼らしい住まいだ。
邸宅の周囲に低く刈り込まれた椿の生垣。
咲き誇る花弁の深紅が目にまぶしい。
奔放に生きた八重の情熱をいつも後ろで暖かく襄は見守った。
そんな二人が柔らかい弥生の日差しを楽しむように仲睦まじくテラスに出した椅子に座っている、そんな光景を私は想った。