萬福寺では、今も中国・明式の作法で儀式や読経が行われている。ある夏の日、得度式が行われていた大雄宝殿に、美しいリズムと独特の節回しの梵唄(声明の一種)が響き渡っていた。萬福寺の建築意匠や仏具は、落ち着いた色合いの日本のものとは異なり、装飾的で明るい色調を帯びている。また山門をくぐれば、大陸の文化に彩られた開放的な空間が広がる。萬福寺開山、隠元隆琦(いんげんりゅうき)は明の高僧で、万里に知れ渡る禅徳を敬仰されていたという。江戸時代初期、日本からの数度の懇請により渡日し、京都宇治に萬福寺を開いて黄檗宗を伝えた。
萬福寺の寺観
萬福寺の総門から中の伽藍配置は全く見えない。まず一度右に折れ、それから左に曲がると、突然巨大な山門が現れる。これは直進してくる魔境を壁に激突させて侵入を防ぐのが目的だとか。山門を入ると、最初の建物は天王殿である。ここには弥勒菩薩ではなく、その化身である金色の大きな布袋像がにこやかに座している。そのユニークな顔つきと大きなお腹が、いかにも福々しい。天王殿の先には、広大な敷地を整然と区切る、龍の背の鱗をデザインした石畳がのびている。そしてその先、はるか彼方に、シンメトリーの荘厳な堂宇、大雄宝殿が立ちはだかるのだ。この開放的な空間は、いかにも大陸的だ。大雄宝殿は萬福寺の本堂にあたる。大きく反りのきいた屋根、卍文様の勾欄、蒼い陶製の香炉。いずれも素朴さ、単調さを旨とする和様の禅寺とは一線を画している。
大雄宝殿の前には、結界を張った長方形のひな壇、プラットフォームがある。プラットフォームの中央には長方形の平らな一枚石が設置され、周囲は白砂で完全に覆われている。新月と満月の日の法要では、この月台(げったい)と呼ばれるこのプラットフォームの上で、厳かな儀式が執り行われるのだそうだ。
左手にある祖師堂は、隠元隆琦を祀ったもので、卍の繰り返し文様で飾られた勾欄が美しい。御宝前には鮮やかな黄地に、大きな桃の刺繍を施した幕がかけられている。この明るい色調が、薄暗い堂宇の中に光を届け、桃の実の魔除けの意味と相まって、陽の気を運びこんでいるように感じた。
大雄宝殿のさらに奥には、白砂の中庭をはさんで法堂がある。大雄宝殿から東西の方丈、そして法堂をつなぐ回廊には、中国式の座面の高い木製の椅子が置いてある。僧侶たちは日々、ここで沈思黙考するのだろうか。回廊を歩いて斎堂の前まで来た時、玉をくわえた大きな木製の魚に目がとまった。魚板である。時を告げる鳴り物の一つであるが、その寓意は、夜でも目を閉じることのない魚を勤勉であると捉え、時を無駄にせず、修行に励むようにという戒めだそうだ。魚のくわえている玉は、煩悩を表しているとか。毎日魚板を叩くことによって玉、すなわち煩悩を吐き出させるのだそうだ。
隠元隆琦
隠元隆琦は、1592(文禄元)年に明(1368-1644)の福建省で生まれた。1654(承応3)年に日本からの招聘を受けて、長崎・崇福寺に普山すること3年、帰国の予定であったが、後水尾天皇や四代将軍・徳川家綱の帰依を受けたことにより、本国からの再三の帰国の求めを振り切って、日本に留まる決意をした。そして1661(寛文元)年、寄進された京都宇治の9万坪の土地に、萬福寺を開創した。
隠元隆琦が明から随伴した弟子は20人、他に仏師や工人などを含めると、総勢30余人が来日していた。彼らは明文化と黄檗宗の伝播のために力を尽くし、書画、仏像、医療、建築、音楽、詩歌、印刷技術(明朝体文字)、煎茶、野菜や果物(インゲン豆、スイカ、筍、レンコン)などを日本にもたらした。普茶料理もまた、隠元隆琦らの招来物である。一つの卓を囲んで、四人で仲良く分け合って食事をする形式は、独り占めせず、普くすべての人に施すという意味合いから、普茶料理というのだそうだ。基本的には、ベジタリアン料理であるが、うなぎもどき、鶏肉もどき、といった「もどき料理」が添えられているのが面白い。法事の後に、みんなで食事を楽しむという習慣も、それまでの日本仏教にはない考え方であった。
明王朝と萬福寺
隠元隆琦と同じく、明からの渡来僧である東皐心越(とうこうしんえつ、このシリーズの6に登場)は、1680(延宝8)年正月に、隠元隆琦の弟子で、萬福寺の第二代住職・木庵性瑫(もくあんしょうとう)を訪ねた。この時木庵は、復明の思想を心に秘めていた東皐心越に、明の末帝の秘話を打ち明けた。
1647(正保4)年、長崎の沖合に、忽然と3隻の外国船が現れた。徳川幕府は、投錨した3隻を警戒し、臨戦態勢をとった。しかし検分してみると、明王朝のやんごとなきお方とその家族を含む、360人の老若男女が乗船していたのである。彼らは日本への亡命を望んでおり、交戦の意志はないという。幕府は高度の政治的判断で、やんごとなきお方とその家族を極秘に受け入れ、その他の者たちは、速やかに帰国させた。1660年代、隠元を含む萬福寺の長老たちは、寺の最奥にある威徳殿で、そのお方に謁見していた。明王朝の再興を願って謀議を重ねたようだが、その後、明の復活が叶わなかったことは、歴史の語る通りである。そのやんごとなきお方、朱慈烺(しゅじろう、日本名は張振甫・ちょうしんぽ)は、最終的に尾張藩に引き取られ、日本に帰化したという。
東皐心越が萬福寺を訪れた翌月、朱慈烺は尾張で波乱の生涯を閉じたという。
萬福寺の儀式や祭礼、建築物などは、中国本土においても希少である明式を踏襲している。萬福寺は、明朝の色彩を色濃く残す黄檗宗の大本山として、今なおその伝統を守り続け、隠元隆琦の禅風とその精神を伝えている。京都駅からJR奈良線に乗って20分、「黄檗」下車徒歩5分で、明の時代にタイムスリップすることができる。
シリーズ:波涛を越えた中国僧
このシリーズでは、大陸から日本に渡ることが命懸けだった時代、仏教を通して、日本の文化形成に多大なる影響を及ぼした6人の中国僧を紹介していきます。
1 鑑真和上(がんじんわじょう668-763):奈良 唐招提寺
2 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう1213-1278):鎌倉 建長寺
3 無学祖元(むがくそげん1226-1286):鎌倉 円覚寺
4 一山一寧(いっさんいちねい1247-1317):伊豆 修善寺
5 隠元隆琦(いんげんりゅうき1592-1673):宇治 萬福寺
6 東皐心越(とうこうしんえつ1639-1696):栃木 大雄寺