奈良 東大寺戒壇院

日本仏教の夜明け

奈良・東大寺境内の西方に、ひっそりと佇む戒壇院。ここではかつて、非常に厳粛な授戒の儀式が執り行われていた。仏徒として生きることを釈迦に誓う代わりに、三師七証の高僧に導かれて宣誓する受戒の儀式。それを見守っていた銅像の四天王はいつしか失われたが、東大寺中門堂から移された天平時代の最高傑作の塑像が、今ここで私たちを待っている。JR東海のCMで「空前絶後、唯一無二、四天王像」と紹介された、あの迫力ある眼差しの守護神は、戒を受ける者たちの心の中まで見据えていたのだろうか。

戒壇院

754(天平勝宝6)年、6度目の渡航で、ようやく唐より来日を果たした鑑真は、翌755(天平勝宝7)年に東大寺戒壇院を開いた。しかし、金堂、講堂、僧坊などを擁する大伽藍は、1180(治承4)、1446(文安3)、1567(永禄10)年と三度も火災に遭い、すべてが灰燼に帰した。現在の建物は、1732(享保17)年に戒壇堂として再建されたもので、多宝塔もこの時に安置されたと伝えられる。

戒壇院の土壁に沿って歩き、門をくぐって境内に足を踏み入れると、石畳が堂宇へと一直線に導いてくれる。両側は竹の結界で仕切られ、足元左には三つの結界石が、この先の場の清浄を示している。境内に整えられた茶色の砂は、水面に立つさざ波のように、受戒する僧の緊張感を表しているようにも見えた。石畳の中ほどに立ち、戒壇堂の屋根を見上げる。左端の鬼瓦は、口に魚をくわえている。またその横の龍の飾り瓦は、おどけたような丸い目をしてこちらを見つめている。この、なんともユニークな瓦の装飾に、思わず口元が緩んだ。堂宇の中は、厳粛な場所ゆえに撮影はできない。靴を脱いで階段を上ると、正面に多宝塔、その前に釈迦と多宝仏が祀られている。壇上を一巡しながら、四方に立つ持国天、増長天、広目天、多聞天を拝む。ここで受戒した僧たちは、薄暗い堂の中で、この四天王に見つめられながら、生涯の誓いをたてたのである。

授戒(受戒)

授戒とは、実際どのようなものだったのだろうか。仏教に帰依すると、まず沙弥(得度して剃髪し、正式な僧となる前の見習い)として10の戒律を守ることを誓わなければならなかった。次に、菩薩戒(生活態度を律しながら利他業に励む)へと進み、その後、正式な僧となるために、具足戒を受けた。このように、本来、僧は段階を踏んで受戒するのである。具足戒は、釈迦の前で戒を守ることを誓うものであったが、釈迦の入滅後は仏像を拝して同様の宣誓を行った。

鑑真の伝えた具足戒授戒の儀式は、戒和上(かいわじょう)、教授師(きょうじゅし)、羯磨師(こんまし) の3人の師と、少なくとも7人の証明師(しょうみょうし)を必要とした。その三師七証が、釈迦の遺言を書き記した遺教経(ゆいきょうきょう)を読み上げた後、受戒者が心身ともに欠格なきことを三度確認する。そして異議なしとして審議が終わると、一生この戒を守ることを誓うかどうかが問われ、受戒者の宣誓がなされる。その後、250の戒と3000の作法、僧としての心得などが説明された。

鑑真来日以前の日本仏教

朝廷は鑑真の来日を熱望していた。それは鑑真が戒律を熟知する高僧であったからだが、ではなぜ、日本は授戒の儀式を行うことができる高僧を、これほどまでに必要としたのだろう?答えは、当時の日本仏教の現実にあった。

百済から日本に仏教が伝来したのは、6世紀半ば、欽明天皇の時代である。この時、天皇や朝廷の高官たちは見事な仏像に目を奪われた。しかし、仏教の受容は国神たちの怒りを買うとして、国家的にその信仰を取り入れることはなかった。その後、推古天皇の元で、仏教的な道徳観に基づいて政治を執り行ったのが、聖徳太子(574-622)である。だがこの時もまだ、国家的な仏教受容には至らなかった。もっとも、630(舒明天皇2)年から、中国の先進的な技術や仏教の経典を収集するために、遣唐使船が始まったことは、仏教の受容に向けた準備だったと言うことができるかもしれない。やがて奈良時代(710-794)になると、鎮護国家の思想のもと、諸国に国分寺が置かれ、各寺に官僧が配された。だがこの官僧たちは、いわば国家公務員として僧位を得たもので、仏教徒であることを自誓したにすぎなかった。つまり、仏教徒としての正式な受戒をせず、また特別な修練も積んでいない、自学自習の僧たちであったのである。

742(天平14)年、日本からの留学僧、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、中国楊州の大明寺(たいめいじ)に、講義中の鑑真を訪ねた。そして日本の仏教が、未だ正式な受戒もできない現状を切々と訴えた。二人は、日本人が仏教の根本を学ぶためには、基礎から指導、教授してくれる高僧たちを、集団として招聘することが必要だと述べた。仏教を学ぶことは、すなわち中国の進んだ学問大系を取り入れることであり、日本人が、中国の先進技術や、洗練された文化、芸術を吸収するために、必須の基礎教育だったのである。

足掛け12年の歳月をかけて、ついに鑑真とその高弟たちは来日した。国を挙げての大歓迎だったことは言うまでもない。長年待ち続けた授戒の儀式を最初に受けたのは、聖武天皇、光明皇后、そして孝謙天皇だった。

鑑真による東大寺戒壇院での授戒は、日本仏教の黎明を告げるものだった。その後の日本仏教の発展の一端は、度重なる苦難を乗り越えて来日し、真摯な努力を惜しまなかった鑑真の功績だったといえよう。

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