下関 関門海峡

大戦(おおいくさ)の舞台となったドラマチック海峡

関門海峡(下関海峡)は、山口県と福岡県、本州と九州を隔てる海峡だ。どうやら約6,000年前に地殻変動により本州と九州が分断され海峡が出来たらしい。現在小笠原沖で海底火山活動により新島がにわかに出現、西之島とつながるか!? と言われている事実を鑑みると、自然の威力、すさまじい。

なにも自然の驚異を書くためにこの記事を書いているのではない。関門海峡だ。この海峡がどれほどドラマティックなものか、という事を書きたいのである。

壇ノ浦の戦い (1,185年)

この海峡が初めて歴史に大きく登場するのは、もちろん1,185年の「壇ノ浦の戦い」においてだ。日本初の本格的海戦がこの海峡で繰り広げられた。いわゆる源平合戦の最終章だ。当時の日本は武士勢力の勃興期。朝廷を挟んで源氏と平氏が勢力を争っており、この決戦で勝利した源氏の大将源頼朝は、壇ノ浦の戦いの7年後、1192年に日本初の武家政権、鎌倉幕府を発足させる。

当時の戦だから、もちろん船は手漕ぎ船だ。源氏側の戦力は800艘とも3,000艘とも言われる。かたや平氏は500~1,000艘。すでに勢力を失った末の決戦だった。にしてもこの海峡、行ったことがある人なら分かるが、潮流が激しいのだ。手漕ぎ船で、何千艘もの木造船同士が矢を射つつ、一体どうやって戦ったのかと、気の遠くなる思いがする。

そして平氏は源義経 率いる源氏軍に敗北し、一族郎党関門海峡のもくずとなる。「驕る平家は久しからず」とはいえ、平家物語に綴られた彼らの身の上は哀れだ。

巌流島の戦い (1,612年)

言わずと知れた「巌流島の戦い」。剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎 が海峡半ばに浮かぶ小島、「巌流島 」で決闘した、とされる。この二人、やはり手漕ぎ船でこの島までやってきたのだ。私は下関港から高速艇で渡ったが、潮流が激しくスピードも速いせいか、めっぽう揺れた。決闘そのものより、どうしてわざわざこんな島までやって来る必要があったのか!!? とにかくこの決闘、武蔵が勝ったのはご承知の通り。巌流島までは下関港、もしくは福岡側の門司港より大人800円、小人400円(往復)、の直行便で行くことが出来、所要時間は数分だ。他に関門海峡遊覧クルーズ(40分)などもある。詳しくは下関市観光政策課まで問い合わせてみよう。

この島の良い所は、海抜が低く高い岸壁もないので、障害物なく目の前を走る大型タンカーなどを間近で見られることだ。私が行った時には、何やら海面でむくむくうごめく黒い物体を発見、なんだ!? と思ったら、自衛隊の潜水艦が海面からにわかに出現した。海から浮かび上がる本物の潜水艦を見るのは生まれて初めての経験で、興奮したことは言うまでもない。せっかく下関界隈まで来たなら、ぜひこの武蔵と小次郎の決闘現場に足を運んでみよう。海峡を往来する大型船舶や自衛艦を見物するにはベストスポットだ。

下関戦争(馬関戦争) (1863, 1864年)

世は幕末。攘夷派だった熱血長州藩(現:山口県)が、アメリカ、フランス、イギリス、オランダ艦船・商船へ大砲をぶっ放したのがこの海峡だ。もちろん報復攻撃を受け、長州藩は壊滅的打撃を蒙る。西洋諸国に貧弱な武力で立ち向かう無謀を身を持って悟った長州藩が、攘夷から開国へと方針を転じるきっかけとなった戦いだった。今でも下関側の関門橋近くに長州藩の砲台跡が残っている。下関を訪れた際には是非立ち寄ってみよう。

他にも関門海峡は日本史に足跡を残しているが、戦場という意味において上記3つの戦いが最も有名だ。この海峡自体が一大歴史スポットなのである。九州に行くには、新幹線や飛行機で行く場合が多いかと思うが、山口、九州近隣に足を運ぶ際には是非関門海峡に立ち寄り、海のもくずと消えた平家の人々、武蔵・小次郎、長州藩の熱血武士達に思いを馳せてみてほしい。

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