芝増上寺

江戸城の裏鬼門を守る寺

増上寺は、浄土宗の七大本山の一つであり、正式名称を三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)という。東京タワーのすぐ隣、六本木からは500mと離れていない東京の中心部に位置しながら、境内は静寂と、ひんやりとした緑に包まれている。その歴史は室町時代にまで遡るが、増上寺の繁栄は江戸開幕とともに訪れた。

江戸の裏鬼門封じ

開幕にあたり、家康は天台密教の僧侶、天海僧正を登用した。天海は天文、遁甲方術などの陰陽道や風水の知識を併せ持つ人物だったと言われる。家康は天海に命じて、江戸の地相を徹底的に調べさせた。最終的に、江戸城の南西に増上寺と日枝神社、東南に上野寛永寺、神田明神、浅草寺という配置が定まり、鬼門および裏鬼門が封じられた。徳川250年の存続は、天海の秘術による結果とも言われる。さらに興味深いのは、江戸の鬼門にある水戸家からは将軍を出すべからずという、天海の言い遺した言葉である。奇しくも最後の将軍、徳川慶喜は水戸家出身であった。

増上寺境内

三つの煩悩(むさぼり、いかり、おろかさ)を解き放つ朱塗りの三門をくぐると、視線は大きく開けて、正面の大殿に圧倒される。だがその前に、グラント松と名のついた巨木があるのに気がつくだろうか。門を入ってすぐ右手にある大木である。これは第18代アメリカ大統領グラント将軍が、増上寺訪問記念に植えたものである。1879年、グラント将軍は大統領職を退いた後に日本を訪問し、7月4日、アメリカの独立記念日に浜離宮で明治天皇に引見した。グラント将軍は明治天皇に、外国からの内部干渉にはくれぐれも注意するように警告したという。

週末、この松の木のそばでは、日光猿軍団の猿回しを見ることができる。江戸の昔も、こんなふうに境内では見せ物があったのかもしれない。

大殿では各種の儀式・法要が営まれるが、儀式等がなければ、外陣に設置された椅子に座って、誰でも静かな時を過ごすことができる。御宝前にこうした場所がある寺は、多くはないだろう。

大殿の裏手には徳川将軍家の墓所がある。二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の将軍と、崇源院(二代夫人)、皇女和宮(十四代夫人)ら五人の正室、三代家光側室桂昌院(五代綱吉実母)をはじめ五人の側室、および歴代将軍の子女らが埋葬されている。ただし一般公開はされていない。

大殿の右手前から将軍家墓所の脇まで、苔むした石段に、ずらりと小さなお地蔵様が並んでいる。千躰子育地蔵尊という。赤い帽子と前掛けが愛らしく、ふと足を止める人も多い。一体ごとに風車が供えられ、風が吹くと、音を立ててくるくると回る。この日、ある一体のお地蔵様の前で、一心に祈る人の姿があった。

増上寺の歴史

増上寺は、1393年、現在の千代田区平河町から麹町あたりに開かれた。やがて、浄土宗の東国の要として発展し、1598年に現在の地、芝に移転している。徳川家康が江戸を居城とするに当たり、菩提寺として選ばれ、その後興隆を極めた。

江戸時代の寺域は、現在の芝公園や東京プリンスホテル、港区役所にまで広がり、増上寺の繁栄が忍ばれる。しかし、明治の廃仏毀釈によって境内地は召し上げられ、さらに二度の火災によって多くの堂宇が焼失した。大正期に再建と復興の兆しが見え始めたのも束の間、1945年の空襲で、伽藍は壊滅的な打撃を受けた。現在の徳川家墓所、および堂宇は昭和期の再建である。

明治期になると、政府のお雇い外国人たちが東京に暮らすようになる。増上寺は堂宇の一部を、居留イギリス人に住居として提供していた。著名なイギリス人旅行家、イザベラ・バード女史は記している。『私たちを招いてくれた人は増上寺の中に住んでいて、そこで午後のお茶を飲んだ。英国聖公会の礼拝は、境内にある小さなお堂で行った。』つまり当時は、由緒ある寺がキリスト教の礼拝所に早変わりしていたのである。

さて、東京タワーは増上寺の西隣、東京スカイツリーは浅草寺の東にある。かつて東京の鬼門と裏鬼門を守っていた二つの寺のすぐそばに、情報を配信する電波塔が立っているというのは、単なる偶然だろうか?

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