栃木 大雄寺の夏

波涛を越えた中国僧 6 東皐心越

栃木県大田原市黒羽の大雄寺(だいおうじ)は、1404(応永11)年に創建された禅寺である。黒羽藩主・大関忠増が、1448(文安5)年に伽藍を整備してからは、大関氏の菩提寺として繁栄した。室町期の建築様式が残る茅葺きの本堂、禅堂、庫裏、回廊からは、往時の興隆が偲ばれる。600年もの間、のべ数千に及ぶ修行僧たちが、日々この回廊を踏みしめながら修行に励んだことを思うと、感慨深いものがある。固く引き締まった回廊の三和土(たたき)を歩きながら、足の裏に僧侶たちのエネルギーを感じるような気がした。

1693(元禄6)年、中国・明からの渡来僧、曹洞宗寿昌派三十五世の東皐心越(とうこうしんえつ)が、この由緒ある寺を訪れた。心越は、那須温泉に湯治に出かけ、住持していた水戸の祇園寺に戻る途中に大雄寺に寄った。大雄寺には『霊鷲』『学無為』の扁額と達磨図など数点の書画が残されている。

大雄寺

那須岳に源流を発し、大田原市黒羽の中心を流れる那珂川は、茨城県を経て太平洋に注ぐ一級河川である。大雄寺はその東岸の森にひっそりと佇んでいる。近くには「観光やな」があって、春から夏にかけては、那珂川で獲れる新鮮な鮎を旅人の口に供してくれる。

車道に面した大雄寺山門から、長い石段を歩いて総門へと登っていく。石段の脇には、趣のある石碑や石仏が並び、ふと足を止めて眺めた。中でも興味深いのは、総門手前の左側にあるラカンの丘である。生き生きとした表情の十六羅漢像が木立の中に点在している。これは、1994(平成6)年に大雄寺開創600年を記念して寄進建立されたものだという。羅漢たちの個性的なポーズは、まるで今、この瞬間に時間がとまったかのようである。ラカンの丘を廻ってから、いよいよ総門に至る。茅葺きの総門に掲げられた扁額には、ややかすんだ金字で『霊鷲』と記されていた。これが前述の、東皐心越揮毫の篆書である。総門をくぐれば、正面に本堂、左に坐禅堂、右に鐘楼と庫裏が素朴な佇まいを見せている。これらの建物は、ぐるりと中庭を取り囲んで、回廊で結ばれている。

東皐心越

東皐心越は、1639(寛永16)年に浙江省の金華府で生まれた。金華府は今日、世界三大ハムの一つ、金華ハムで知られる土地である。東皐心越が幼少期を過ごしたのは、明末清初の混沌とした時代であり、若き日の東皐心越も、その熱き血を憂国の情に傾けた。仏門を飛び出し、明の僧兵として戦乱の中に身を投じたのである。しかし、滅び行く明軍には統率力も求心力もなかった。泥沼の戦いの中、東皐心越は心身ともに憔悴し、抜け殻になって禅林に戻った。その後の彼は、全身全霊を傾けて修行に励み、ついに、すべての疑念が溶けてゆく大悟の瞬間を迎える。そして師僧の命を受け、西湖の西にある金華山永福禅寺に普山した。しかし、10年に渡り明軍で活動したという事実は、その後の東皐心越に、苦難の日々を与えた。清による明軍の残党追補の手が、東皐心越の元にも及んできたのである。

1676(延宝14)年、表向きは招聘された渡来僧として、だが実情は、清の追っ手を逃れるために、東皐心越は日本の地を踏んだ。当時鎖国下の日本は、非公式に高徳の渡来僧を受け入れ、大陸各地の情報を得ていたのである。ところが、長崎にたどり着いた東皐心越に、安寧の日々は訪れなかった。日本仏教界には、各宗派の対立が存在しており、曹洞宗の法嗣であった東皐心越は、黄檗派の僧侶を刺激して、反対運動を起こさせてしまったのである。結果的に、「心越、帰国すべし」の声が上がり、幕府からも厳しい詮議を受けざるをえなかった。そして東皐心越は、長崎興福寺に幽閉された。一方で、曹洞宗の僧侶たちは、江戸で東皐心越救済のために奔走した。彼らは、幕政に絶大な力を持つ水戸藩主、徳川光圀を動かすことに成功し、東皐心越の滞在を承認させた。そして1年後、東皐心越はようやく軟禁を解かれた。

1683(天和3)年、東皐心越は徳川光圀の庇護の元、水戸祇園寺に入り、禅と、様々な禅文化を伝承、普及させることに心血を注ぐ。東皐心越に指導を受けた者たちは、その後、独自の芸術世界を作り上げ、各界で活躍していくことになる。

禅の文化

東皐心越は多才な文僧であった。墨画、篆刻、書、七弦箏、曲笛、歌、詩など、いずれにおいても洗練された、高度な芸術的素養を身につけており、多くの作品を日本各地に残した。例えば神奈川県の金沢八景は、東皐心越の詠んだ漢詩に基づいて命名された名所である。

また東皐心越は、様々な書体に精通しており、親交のあった人々には、用途に応じた複数の印を彫って贈っている。長崎奉行の牛込勝登(うしごめかつなり)や唐通事の林時亮(りんじりょう)には三種の印を贈呈しており、その印影が残されている。また、書画に関しては、実に全国47ヵ寺に扁額を残した。一人でこれほど多くの扁額を揮毫した例は他にはない。黒羽大雄寺の『霊鷲』は、当時の日本では珍しかった篆書で記されており、きわめて斬新な作品として、寺僧に受け入れられたようだ。

徳川光圀との親交

徳川家康の孫の一人で、第二代水戸藩主だった徳川光圀は、幕政に多大な影響力を持ち、社会文化活動にも尽力した人物である。光圀は、農政改革や寺社改革などの政治的な活動の他、古典研究、文化財の保護、『大日本史』編纂という文化活動にも積極的だった。

光圀と東皐心越が初めて顔を合わせたのは、江戸の水戸藩上屋敷の茶室である。目礼を交わしてから、主、光圀が茶を点てる。炉の炭が赤く燃え、静寂の時が流れた。天目茶碗に鮮やかな抹茶が映える。客の東皐心越は美しい茶器を眺め、それから茶碗を口に運んだ。とその時、耳をつんざくような銃声が轟いた。光圀は、視線の端で、じっと東皐心越の様子を観察していた。東皐心越は、そのまま何事もなかったようにゆったりと茶を飲み干し、膝前に茶碗を戻した。かくしてその胆力を見届けた光圀が、今度は自分の茶を啜ろうとしたとき、東皐心越の大音声が響いた。「カーッツ(喝)!!!」光圀は驚いて、うっかり茶碗を落としそうになった。光圀の仕掛けを見抜いていた東皐心越は「砲声は武家の常、喝は禅家の常」と発した。すぐにどちらからともなく笑いがこぼれ、互いの心が打ち解けた。以後、二人は国籍も身分も越えた友情をあたため、その親交は東皐心越が示寂するまで続いたという(参考:『東皐心越』高田祥平著)。

東皐心越は、僧侶、政治家、学者、文人などと広く交友があり、最先端の明の芸術、および禅文化を日本に伝えた。その幅広い活動は、200年後の百花繚乱の江戸文化大成に、おそらく潜在的な影響を与えたことであろう。

シリーズ:波涛を越えた中国僧

このシリーズでは、大陸から日本に渡ることが命懸けだった時代に、荒波を越えて渡来し、仏教を通じ、日本の文化形成に多大なる影響を及ぼした、6人の中国僧を紹介していきます。

1 鑑真和上(がんじんわじょう668-763):奈良 唐招提寺

2 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう1213-1278):鎌倉 建長寺

3 無学祖元(むがくそげん1226-1286):鎌倉 円覚寺

4 一山一寧(いっさんいちねい1247-1317):伊豆 修善寺

5 隠元隆琦(いんげんりゅうき1592-1673):宇治 萬福寺

6 東皐心越(とうこうしんえつ1639-1696):栃木 大雄寺

0
0
この記事は役に立ちましたか?
JapanTravel.com のサービス向上にご協力ください。
評価する

会話に参加する

Thank you for your support!

Your feedback has been sent.