栃木県の北東、大田原市の黒羽にある那須神社には、平家物語に登場する弓の名手、那須与一が祈願した武運の神が祀られている。
平家物語
平家一門の人間ドラマと、源平の戦いを描いた一大叙事詩、平家物語。12世紀末の平家の盛衰は、約100年の時を経て、盲目の琵琶法師が全国に語り歩き、日本中に広まっていった。有名な冒頭の部分は、すべてのものは移ろい変わりゆくという、仏教の無常観を謡い上げている。
『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ』
さて、この物語のクライマックス、屋島の戦いに、那須与一が登場する。
海上の平家軍と陸上の源氏軍が対峙する中、日暮れ近く、沖から一艘の舟が現れた。若い優美な女が、美しく着飾って手招きしている。見れば、紅の地に金色の日の丸が描かれた扇が棹の先についていた。義経は、扇を的に見立てた敵側からの挑戦と受け取った。そこで、「あの的を打ち抜くことのできる者はいないか」と声をかけるが、武将たちは次々に辞退する。最後に、弓の名手と名高い那須与一が呼び寄せられた。この時、与一は若干20歳。大抜擢にかしこまって答えた。「畏れ多くも、もし射損ねましたら、源氏末代までの恥、他の方にお任せ下さい。」これを聞いた義経は怒り、「我が命に背くならば、すぐにここから去るがよい。」と言い放った。
そこで与一は、死を覚悟の上、義経の命を受けた。だが、的までの距離は遠く、海に浮かぶ小舟は大きく揺れていた。的は、波に揉まれて片時も留まることがない。与一は目を閉じて、那須温泉神社の大己貴神(おほむなちのかみ)と那須神社の八幡大菩薩に一心に祈った。それから静かに目を開けると、不思議に波は穏やかになっていた。与一は一気に弓を引いた。放たれた矢は、ひょうと音を立てて空を切った。そして、射抜かれた扇が宙に舞い上がった。次の瞬間、源平両軍から、与一に大きな喝采が上がった。
那須神社の由緒
伝承によれば、那須神社の創立は、仁徳天皇(在位313-399)の御代といわれる。黄金の玉を埋めて御神体とし、原初は天照大神、日本武尊、春日大神を勧請した。その後、坂上田村麻呂(758-811)が、蝦夷討伐の際に八幡神を合祀して先勝祈願をしてから、武運の神を祀る八幡宮となった。以後、土地の人々の厚い信仰を受け、1577(天正5)年には、黒羽藩主大関氏が本殿、拝殿、楼門を再興し、神楽や獅子舞なども奉納されるようになった。
与一が戦ったのは、1185(文治元)年頃であるから、那須神社が成立してからすでに800年以上、人々の信仰を集めていたことになる。与一はごく自然に、幼い頃より那須神社への信仰を育んできたのであろう。
那須神社社殿
鬱蒼とした林の中、苔むした太鼓橋の先に、朱塗りの楼門が忽然と現れる。極彩色の組物を配した楼門内には、烏帽子をかぶり、狩衣姿に弓を持った武士が、両脇で睨みをきかせて座っている。門をくぐれば、与一が太刀を奉納したという拝殿が見える。拝殿奥の本殿、そしてさらに奥にある小さな小山が、黄金の玉を埋めたとされる塚である。
黒羽へのアクセスは、東北自動車道「矢板」インターから30分、またはJR那須塩原駅か西那須野駅からタクシーで20分と、電車で訪れる旅人にはやや不便である。またバスは一日8-10本程度と、本数が少ないので、事前に時刻表を確認していただきたい。