ホテル・ニューグランド The Café 2

異人たちの足跡 8 サリー・ワイル

横浜は、1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的な被害を受けた。それまで多くの外国人でにぎわっていた港町は、一瞬のうちに廃墟と化し、外国商社や外国人は、神戸や東京に去っていった。そんな中、ホテル・ニューグランドは、横浜復興のシンボルとして再建され、パリから若きスイス人シェフ、サリー・ワイル(Saly Weil)が招聘された。

サリー・ワイル

ワイルは1897(明治30)年、スイス・ベルンのユダヤ人家庭に生まれた。成長して料理人となり、ヨーロッパ数カ国で料理修行をした後、1927(昭和2)年、新規オープンするホテル・ニューグランドの初代料理長として日本に招かれた。ワイルはヨーロッパ各国のあらゆる料理に精通していたが、ことフランス料理に関しては、巨匠G.A.エスコフィエに傾倒していたという。ホテル・ニューグランドでは、エスコフィエのレシピを基本に、独自のアレンジを加えたスイス料理、オーストリア料理、ドイツ料理、ロシア料理、イギリス料理などを、種々に織り交ぜて、ワイルオリジナルの料理を作っていた。

サリー・ワイルの教え

海外渡航が容易ではなかった時代、本物の西洋料理を学びたいと渇望していた日本人料理人たちは、続々とワイルの元に集まってきた。当時を振り返って料理人たちは言う。ワイルは厳格で、非常にプロ意識が高かったと。厨房では毎日ワイルの檄が飛んだ。『もっと素早く動け!』『厨房は常に清潔,整理、整頓!』『だらしない格好をするな!』『タバコも酒も禁止!』『メニューを組み立てるときは材料と原価計算を切り離すな!』

日本の料理人たちは、それまで弟子に教える、ということはしなかった。弟子は師匠の技を見て覚える、味や作り方は、盗むのが鉄則だった。しかしワイルは違った。自分のレシピを惜しげもなく弟子たちに披露した。また完全分業制を排した。焼き物だけ、蒸し物だけ、魚料理だけ、といった専属主義がまかり通っていた厨房に、ローテーション制を採用した。ワイルは言った。『魚だけ、肉だけしか料理しないなどと言うのは、低レベルです。恥かしいと思いなさい!』

第二次世界大戦とマッカーサー

GHQ最高司令官、マッカーサー元帥は、ホテル・ニューグランドに強い思い入れがあった。フィリピン大統領に随行して宿泊し、ホテルと食事を大変に気に入ったため、1934(昭和9)年には母と、1937(昭和12)年には妻ジーンと再訪するなど、戦前に計4回も宿泊している。ワイルは1927(昭和2)年から1944(昭和19)年までホテル・ニューグランドの料理長を務めていたので、マッカーサーは、ワイルの料理を口にしていたことになる。

第二次世界大戦後に日本がGHQの占領下に置かれると、1945(昭和20)年8月30日、マッカーサーは厚木基地に降り立った後、直ちに横浜に向かった。行き先はホテル・ニューグランドだった。しかし、彼が期待していた最高の食事は、マッカーサーのテーブルに出されることはなかった。すでにワイルは去り、敗戦後の厨房には、高級食材など残っていなかった。やっと探し出したスケソウ鱈の干物を、牛乳で戻してムニエルにしたものと、酢をかけたキュウリの棒切りが出されたという。結局、マッカーサーは女性給仕に『Thank you.』と言って微笑み、紅茶だけ飲んで席を立った。その夜、マッカーサーは山下公園に野営していた部下から食事を届けさせたという。

そして、日本の窮状を理解したマッカーサーは、横浜に大量の物資を届けるよう指示を出した。彼が三夜過ごしたホテル・ニューグランドの部屋は、現在リニューアルされて、マッカーサーズ・スウィートと呼ばれ、一般の宿泊予約も受け付けている。

当時ワイルがもたらした料理の数々は、今や日本全国で西洋料理の定番となった。だがワイルの功績は、単に西洋料理を紹介したことではない。ワイルの教示を仰いだ弟子たちが、日本各地に散らばって料理を作り、日本の食文化全体に変革をもたらしたのである。かしこまったコース料理だけではなく、カジュアルで素朴な西洋料理も存在することを、多くの日本人が知るようになった。この文化交流こそ、実は特筆に値する。ワイルの時代から時は流れ、人々の嗜好も変化した。その間、各地のレストランは独自の味を開発し、日本の西洋料理はさらに発展を遂げた。だが、ホテル・ニューグランドのThe Caféは、ワイルのオリジナルレシピを守り続けている。横浜を訪れるなら、この伝統の一皿を味わってみてはいかがだろうか。

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