鹿児島 城山 西郷隆盛終焉之地

映画「ラスト・サムライ」のモデル、西郷隆盛自刃の地

鹿児島県人に愛されてやまない男がいる。西郷隆盛だ。一度、鹿児島出身の知人に聞いてみた。「西郷隆盛と大久保利通って、鹿児島ではどちらが人気があるんですか?」と。「そりゃもちろん西郷さんですよ!」と即答された。「西郷さんは人気があるけど、大久保さんが好きなんて言う人はいませんねえ」とのこと。

この西郷隆盛と大久保利通、共に明治の元勲で、明治維新の立役者だ。少し乱暴な言い方をするなら、この二人が長州の桂小五郎らと共に倒幕を牽引し、明治新政府を創り上げたと言っても過言ではない。しかし二人はその後袂を分かち、西郷は旧薩摩武士団から成る反乱軍を率いて西南戦争を起こし逆賊となる。そして共に幕府を倒し新政府を創り上げた親友大久保の指揮する政府軍に倒され、鹿児島城山で割腹自害し、果てる。

政府から見れば西郷は逆賊、かつての呼び名を使えば朝敵、賊軍で、犯罪者だ。しかし、西郷の銅像は出身地鹿児島だけでなく上野公園にまであり、この銅像の建立にはなんと宮内庁から下賜金まで出ているのである。西郷の死後21年が経過した1898年の除幕式には時の総理大臣、山県有朋をはじめ、勝海舟、大山巌、榎本武揚、英国公使アーネストサトウなど、錚々たる面子が顔を揃えた。時の権力者として君臨する、西郷のかつての朋輩、後輩、知己達だ。

これにはもちろん事情がある。紙数に限りがあるのでものすごく大雑把な解説だがご容赦願いたい。

そもそも明治維新とは、1853年のペリーの黒船来航に端を発している。日本国中、と言っても侍達だが、夷敵を倒せと猛り狂ったのだ。そこで登場するのが薩摩・長州の侍どもだった。ここで話はペリー来航から更に250年前まで遡る。

薩摩、長州とは、関ヶ原の戦いで西軍側に付き、徳川家康率いる東軍に敗北、冷や飯を食らった二大強藩である。当時薩摩は九州広域を支配する一大勢力、そして長州も中国地方を広く治める強大な藩だった。しかし関ヶ原の論功行賞で、もちろん敗北者の知行は削られる。薩摩は現在の鹿児島一国に押し込められ、長州も今の山口県一国に知行を減らされた。今でいうダウンサイジングで、もちろんダウンサイズした会社は社員を食わせられない、リストラせざるを得ないのである。こうして薩摩、長州の多くの侍達は職を失い、百姓にならざるを得なかった者も多い。徳川265年の治世の間、薩摩、長州の侍達は、藩主含め、徳川を憎み続けることとなる。徳川時代を通じ、長州藩士の家では西枕で寝た。265年間徳川家に足を向けて寝続けるというのだから、その恨み、凄まじい。

この冷や飯を食らったかつての二大強藩は、海に面している。江戸から遠く目が届かぬという地理を利用し、せっせと密貿易で資金を貯め込み、幕末には両藩とも潤沢な資金を有していた。そしてペリー来航で狂乱する時勢に乗じ、攘夷と叫びつつその腹の底は倒幕、徳川を倒すために立ち上がるのである。

こうして薩長両藩を主体にした反徳川勢力は、明治維新を成功させるわけだが、倒幕までの間、参戦したほぼ全ての侍達は、侍の世が続くと信じて疑わなかった。徳川を倒し、次は薩摩・長州連合による新たな幕府が出来る、そして夷敵を討ち払うのだ、と思っていたのだ。維新後開国し、侍の世を終わらせざるを得ぬことを知っていたのは、西郷、大久保を含むごくわずかのリーダー達だけだったのである。

明治維新後、西洋諸国の脅威に対抗するには開国し、彼らの技術、知識を手に入れる必要があると悟った新政府は日本を開国、近代化を図る。そして廃藩置県し、士農工商の身分制度を撤廃するのである。これが何を意味するかというと、当時人口の約7%を占めたと言われる武士が一斉に職を失ったのである。現在の日本の人口約1億3千万から推計すると、910万人が一斉に失業したことになる。これがどれほどの人数かといえば、現在の神奈川県民全てが職を失うのと同じなのだ。とてつもない規模の一大リストラが行われたわけで、これは、どえらいことなのである。そしてこれら失職した武士達は、自分たちの世が来ると信じ、命がけで血涙を流し戦い、維新を成功させた人々なのだから、その憤懣たるや察するに余りある。

そして、その憤懣やる方ない武士達、特に薩摩の武士達の憤りを一身に背負い、生贄の羊となったのが西郷隆盛なのだ。

彼は、不満を抱く武士達が消滅せねば日本の近代化は成らないことを知っていた。しかし、反乱には反対だった。が、怒りに猛り狂う薩摩の若侍たちを止められなかった。西郷は薩摩武士達を愛していたのである。「おはんらに預けた命」と言い、彼等と運命を共にした。現在の鹿児島市を拠点とする西郷軍3万は、熊本城を皮切りに九州各地を転戦、7万の政府軍に挑むが田原坂の戦いで大敗北する。西郷は、今や数百人にまで激減した軍勢と共に故郷鹿児島に帰還、城山に立て籠もり、最後、自刃して果てる。

西南戦争は日本最後の内戦で、これが西郷が「ラスト・サムライ」と呼ばれる所以かもしれない。侍として戦い、侍として死んだ最後のサムライ。ちなみにハリウッド映画「ラスト・サムライ」で渡辺謙が演じた「勝元」は、西郷隆盛がモデルだ。

西南戦争で政府軍を指揮し、親友を殺さざるを得なかった大久保利通は、西郷が城山で自決した約1年後、期せずして暗殺される。路傍で襲われた彼の懐には、かつて西郷から届いた手紙が入っていたと言われる。共に日本の近代化に尽力したラスト・サムライだ、と私は思う。

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