二条城の東門の前に着いた時には夕刻も4時半を回っていて、すでに入場券販売の窓口は閉まっている。
止む無く、外堀をぐるりと回る散策をすることにした。
以前内部は一通り見たことがあるから、堀端を歩くのも一趣だと思ったのである。
東門を過ぎて、東南角に下がってゆく。
ふと仰ぎ見ると、中の屋敷の風情とは違う、いわゆる日本の城の姿がそこには残っている。
京都の二条城は「城」という名を冠しているけれども、それは徳川家康が上洛の折の滞在所として建立されたもので、一般の屋敷の範疇である。
さかのぼること四百余年。
西暦603年、家康は征夷大将軍となる宣旨を天皇から拝受するために京都へ赴いた。
その際に、天下統一を果たした日本一の武将・君主にふさわしい滞在所を、という意図で二条城工事はなされたのだ。
しかし、3代家光を最後に、この「城」を使う習慣は廃れていった。
ただし、天皇を監視する京都所司代の機能だけはこの城内に残され、幕末にいたるまで二条城は歴史の表舞台から消えてしまう。
二条城建立から250年後の幕末。
長らく続いた鎖国は黒船来航を期に終焉を迎えて、日本は締め切っていた門戸をいやおうなく開けざるを得なくなった。
併せるように、二条城もその門を開くことになる。
徳川幕府の歴代将軍が二条城を使わなくなって230年間、城は傷み老朽化していた。
あまつさえ、落雷や京の大火、地震でもはやぼろぼろである。
そんな折、幕末になって14代将軍徳川家茂(いえもち)が上洛し天皇と会見する必要性が出てきた。
それで、幕府は二条城の大改築を行い、再びこの名城は復活したのである。
だがこの家茂は病弱で若干20歳の若さで逝去してしまう。
そこへ次の将軍として白羽の矢が当たったのが慶喜だ。
二条城に幕府の閣僚が集結し喧々諤々(けんけんがくがく)の議論が白熱した。
しかし、慶喜は「こんな間の悪い時期に将軍になるなんて、ばばを掴むのはいやじゃ」と言ったかどうか。
とにかく固辞。
しかし、ほかに適材が見当たらない幕閣は必死で慶喜を説得した。
しょうがねえなあ、と慶喜はしぶしぶ引き受ける。
かくして、慶喜は徳川幕府最後の将軍となり、征夷大将軍の宣旨を拝命するために、再び二条城へ赴いた。
慶喜は実はかなり聡明な殿様だったようだ。
しかも先が読める。
長らく続けてきた鎖国も、隣国中国がアヘン戦争でイギリスに侵略を許すといった情報を逐一受けていたから、もはや開国は避けられないと判断したのだろう。
尊皇攘夷運動は幕府存続とは相反する思想であったけれども、徳川300年の面子にこだわっていたら自分の命も危ういし日本政府の大きなうねりにもはじかれてしまう。
そう慶喜は計算したのだろう。
大政奉還という日本史上最大の出来事はこの二条城でなされたのである。
慶喜はさらに江戸城を無血開城し、新政府への恭順を示した。
多くの地方藩の武士たちが新政府と闘って命を散らしたのとは大きく違う。
要領がいい、というよりは、それだけ彼の判断に世界情報が集まっていたのだろう。
もう武士の時代ではない。
武士道に固執していては外国の列強に植民地化されてしまう。
父祖たちの偉大な功績にとらわれずに政権を明け渡した慶喜は、さすが最後の将軍の威風を備えていたと言えよう。
優雅な二条城の庭園の静謐からは想像もできない、血なまぐさい歴史の胎動がこの二条城を舞台に繰り広げられ、日本の歴史はごろりと大きな音をたてて一転がり前に進んでいったのだ。
そんなことを想いながら、私は二条城の外堀沿いを歩いた。
東門から堀川通沿いに南下し、押小路通を西進。押小路通に面する掘は全長450メートル。
西日がまぶしい。
西南角まで来ると美福通を北上する。およそ400メートルの距離である。
掘の西側には、道路向かいに京都府立朱雀高校。終業のチャイムが響いてくる。
その隣は二条中学校だ。いくぶん幼げな表情の子供たちが三々五々連れ立って校門を後にしていく。
北西の角から東進。竹屋町通だ。北東角まで約450メートル。
しめて約2キロの、時間にすれば45分ほどである。普通ならほとんどの観光客は城内を一巡して帰ってしまうだろう。京都の生活の匂いと、それとはおよそかけ離れた150年昔の歴史的大事件のギャップが鮮やかに感じられて、何とも印象深い外堀の散歩となった。