京都・嵯峨野は小倉山の東麓にひっそりと立つ「祇王寺(ぎおうじ)」は、寺というよりは小さな庵(いおり)の佇まいである。古来は法然(ほうねん)の門弟良鎮(りょうちん)が念仏の場として「往生院」(おうじょういん)を開基(かいき)したのが起こりである。一時は隆盛を誇った時期もあったが明治維新(めいじいしん)とともに廃寺となってしまった。その際、大覚寺が残された仏像と塔を保管していたのだが、大覚寺門跡の楠玉諦師はこれを惜しみ再建を計画した。それを知った元京都府知事北垣国道が祇王の話を聞いて明治28年に嵯峨野に在った別荘一棟を寄付した。これが現在の祇王寺の建物である。その経緯から祇王寺は真言宗大覚寺派の塔頭寺院となっている。
北垣氏が聞き、寺の名前ともなった「祇王」は平家物語第一巻に詳述されている。平家物語は諸説あるのだが作者不詳で、吉田兼好の「徒然草」に触れているところがあって、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたと記されている。
平安時代末期。貴族政治の行き詰まりを打破せんと一人の武士が権力の頂点に立った。平清盛(たいらのきよもり)である。優れた政治的嗅覚を持っていたが、この清盛、自分がこれと思うと突っ走るタイプで周囲を上手に組み込んでいくということができない。だから「平家物語」では清盛は散々に書かれている。実際のところはどうだったかといえば、清盛は場の空気をあまり読まずに突っ走る能天気な男であったようだ。それに、稀代の好色家でもあった。思えば、源義経の母で絶世の美女とうたわれた常磐御前(ときわごぜん)も子供の処刑をちらつかせて妾(めかけ)にしてしまったことがあった。清盛のそうした不埒(ふらち)な振る舞いは「平家物語」にも「世の避難をも遠慮せず人のあざけりもかえりみること無く非常識な振る舞いばかりなさった。」と、手厳しい。
さて、あるとき屋敷での饗宴(きょうえん)に清盛は都で評判の白拍子(しらびょうし)の名手を招いた。祇王(ぎおう)、祇女(ぎにょ)という姉妹である。白拍子、刀自(とじ)の娘たちであった。白拍子というのは、歌舞を演ずる芸人で、今で言えばダンサー兼歌手だ。舞い踊る祇王の可憐(かれん)さと妖艶(ようえん)さにすっかりほだされてしまった清盛。ごくりと生唾(なまつば)を飲み込むと早速、家来に手配をさせてその日から自分の側女(そばめ)にしてしまった。齢(よわい)二十歳。清盛は祇王一家がたいそう気に入り、手厚く遇された祇王母子は裕福で幸せな生活を送った。
3年ほども経った頃、京の都人(みやこびと)達の噂(うわさ)に新たな白拍子が上った。若干16歳の加賀の国出身の娘である。名を仏御前(ほとけごぜん)といった。若さゆえに怖いもの知らずで自分の売り込みにもまったく臆するところはない。
ある日のこと、仏御前は西八条の清盛の屋敷へと出かけていった。清盛と祇王がを眺め楽しんでいると屋敷の取次者が清盛に近寄り、
「ただいま、都で評判の仏御前という白拍子が参っておりますが。」
と告げた。
「けしからん。わしを誰と心得る。遊女ごときが、呼んでもおらんものを。即刻追い返せ。」と怒鳴りつけました。
「親方様、まあそうおっしゃらずに。まだ年端もいかない娘です。お戯(たわむ)れにご覧あそばされては。」
と祇王は清盛の怒気を鎮めつつ言った。(第二部に続く)