京都「京都御苑」

嵯峨天皇の物語

Shozo Fujii   2014/01/23によって

京都御所は実は京都御苑の中の一部である。

明治維新の際天皇が東京へ移った東幸によって、御所周辺に居住していた宮家や公家も天皇と共に東京へ移住した。

だが、東幸後わずか十数年で、御所や遺棄された周囲のそれらの屋敷群がひどく荒廃してゆく様を知るに及んで明治天皇は大層嘆き、それを整備管理するようにと命じたのである。

梨木神社を後に京都御苑東側の清和院御門をくぐると正面に御所が小さく見える。

仙洞御所脇の細かい砂利を踏みしめて進む。蹴鞠に興じる貴族たちの嬌声が聞こえてきそうだ。

歴代の天皇の中でとりわけ私にとって興味をかきたてられる人物は嵯峨天皇だ。

平安時代の安定の基礎を作り「源氏物語」の背景の礎も築いたからである。

西暦810年、9月6日。

検非違使の頭目、坂上田村麻呂は嵯峨天皇に平城京の事変を報じた。

嵯峨天皇の実兄平城上皇が薬子に唆され平城京へ遷都を詔勅したのだ。

薬子とは平城上皇の愛妾、藤原薬子のことである。

平城天皇は父桓武天皇から位を譲り受け806年に即位した。 

この平城天皇、頭は良かったのだが病弱で神経の細い男であった。

即位後まもなく平城天皇は妃を受けるのだが、あろうことか彼は妃ではなく一緒に伴い来た母親の方に惹かれ、たちまち深い男女の仲になってしまう。

いくら権力者でもさすがにこれは当時まだタブーだったようで、早速それは桓武天皇の耳に入った。

その日のうちに薬子は御所から追放されてしまった。

失意の平城天皇は以来寡黙となり落ち込んで人も遠ざけ、事務仕事の日々に埋もれていった。

それから3年後の809年。

ストレスで平城天皇がついにうつ病を発病し、嵯峨天皇に譲位する。

天皇は上皇となって翌年には平城京へさっさと隠居を決め込んでしまった。

ところがプレッシャーがなくなってみるとあっという間に病状快復!

元気もりもりである。

うるさい桓武天皇が崩御するとさっそく平城上皇は薬子を呼び寄せ、以前と同様愛人関係を復活させ、尚侍という重職に復職させた。

尚侍とは天皇と家臣との取次ぎだ。

得てしてこういう職には危うい権力が発生するものなのだがこの薬子もその例外ではない。

上皇は薬子にとってみれば自分に心身とも耽溺している若造。

指人形を操るようにたやすい。

 この薬子とその兄仲成は、上皇と嵯峨天皇の意見の衝突をさらに反目へと助長すべく煽りに煽った。

隙を見計らって再度平城上皇を天皇に返り咲かせようという魂胆なのである。

これに対して嵯峨天皇の取った行動は的確で実にすばやかった。

坂上田村麻呂に命じて近隣の豪族を押さえ臨戦態勢を取らせ、平城京へと兵を進め平城上皇包囲網を敷いて上皇を追い詰めたのである。

仲成は処刑。

弓矢を数十本突き刺す射殺であった。

薬子は座る嵯峨天皇の前で、毒をあおらされ自殺させられた。

平城上皇には、「兄さん、これで懲りたやろ。もう女に手を出しちゃあかんよ。」と言ったかどうか。

上皇は頭を丸められ出家させられた。

この嵯峨天皇の政治家としての豪腕ぶりはつとに名高い。

昨今の象徴天皇とは違い、彼は、アメリカの大統領と中国の首相の権力を足した位の政治手腕を発揮したのである。

日本史史上歴代1位の三百余年の長期安定時代の平安時代の基礎を築いたのである。

Shozo Fujiiさんによって書かれました。
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