庭は三次元のアートといえるかも知れない。園路を歩いて木々に触れ、花の香りに包まれて、様々な角度からその景色を楽しむことができるからだ。だが室内から眺める庭は、障子や窓を額縁のようにして鑑賞する絵画のようでもある。
専門家によれば、南禅寺塔頭・金地院の鶴亀の庭には、ほぼ同時期に制作された俵屋宗達の「風神雷神図」と共通する空間構成が用いられているという。いずれも、対称的な二つの主体の間に、大きな余白があることが特徴だ。
散策の順路
入り口を抜けて、石畳に導かれるように奥に進んでいくと池がある。その畔を過ぎ、鳥居をくぐる。樹木が左右の視界を遮るために、その先に何があるのだろうという期待感で、自然に歩みが早まる。正面には、徳川家康の遺髪を祀った東照宮の社があった。日光東照宮同様、家康公への礼拝をするために建立されたものだという。その東照宮の奥には石段があって、降りていくと開山堂と方丈の前に出る。方丈前に広がる枯山水の庭園が、小堀遠州作庭の鶴亀の庭である。
金地院・鶴亀の庭
この庭は、幕府作事奉行・小堀遠州が設計し、庭作りの名人・賢庭が実際の作業を指揮して、1632(寛永9)年頃に完成させた。遠州が細部に至るまで細かい注文を出し、賢庭がそれを忠実に実現したと言われている。縁側に立って庭を眺めると、前方には広い白砂の海(宝船とも)が見えるが、室内からは、それはほとんど隠れてしまう。代わりに、刈り込まれたツツジの小山とその手前の小さな石組みだけが明らかになる。この刈り込みは、山の峰々と深山幽谷の景色を模したものだと言う。また、向かって右の大きな石組みは鶴、左側の石組みと柏槙の木は亀を象徴している。中央の灯籠はアイ・ストップの役割を果たし、左右の大きな石組みに対して正面に小さな石組みを置くことで、遠近法を用いて、庭の奥行きを強調している。
小堀遠州とその作庭
遠州は1579(天正7)年に豊臣秀吉の家臣、小堀新介の長男として近江・長浜に生まれた。14才から大徳寺で参禅し、古田織部に茶の湯を学び始めた。秀吉没後は徳川家康に仕え、1606(慶長11)年には幕府作事奉行に任ぜられた。日光東照宮、二条城二の丸庭園、南禅寺方丈庭園、江戸城本丸や西の丸など、主要な幕府施設の造営は、遠州の作事、差配によるものだったと言われている。さて、遠州の美意識は、「奇麗さび」と表現される。千利休が唱えた「わび茶」「さび」は装飾のない、枯れた美しさであったのに対し、遠州は明るく、上品で色彩豊かな美をよしとした。また遠州は、新唐様やヨーロッパ・ルネッサンスのエッセンスを取り入れ、日本や中国の古典的な美と融合させて独自の装飾世界を作り出した。
遠州が残した美しい言葉がある。
「雪の日には紅梅一輪」
雪の路地を歩き、客が薄暗い茶室に入る。床の間には紅梅が一輪。彩りのない世界から茶室に入った客は、これを見てほっとぬくもりを感じる。雪を花と見立てた千利休との違いが、ここに表れている。
このシリーズについて
平安京遷都から今日までの1200年間、京の都には、星の数ほどの寺社や庭園が造られました。その中でも名庭と呼ばれる庭には、大きく分けて三つの形式があります(複数を組み合わせたものもありますが)。1)枯山水:石や砂で水の流れを表現したもので、方丈や書院などから眺める庭。2)回遊式:多くは池の周囲を散策しながら、様々な角度から楽しむ庭。3)抽象的枯山水:伝統的枯山水を継承しつつ、モダンなデザインを取り入れた庭。
京都の庭園の歴史は神泉苑から始まり、鎌倉時代以降、上記のような三つの形式に発展していったようです。このシリーズでは、京都の名庭園をご紹介しながら、それらを設計した作庭家(庭園プランナー/庭師)の、庭園に関する独自の考え方を探っていきたいと思います。
1 夢窓疎石:天龍寺 方丈庭園(池泉回遊式)
2 小堀遠州:南禅寺塔頭 金地院 鶴亀の庭(枯山水)
3 石川丈山:詩仙堂(枯山水+池泉回遊式)
4 七代目植治:無鄰菴(池泉回遊式)
5 重森三玲:東福寺 方丈庭園(抽象的枯山水)
なお、平安時代の京都では、庭で船遊びをしたり、建物をつなぐ回廊から景色を楽しんだりしました。回廊巡りを楽しむ京の庭シリーズでは、縦横にはりめぐらされた回廊から鑑賞する庭をピックアップしてご紹介しています。