「京都のお寺といえば・・・清水寺」と口をついて出るほどに、清水寺は知名度の高いお寺の一つである。錦雲渓(きんうんけい)の断崖に立つ清水の舞台は、季節ごとに変わる木々の色彩を背景に、その美しい姿と壮観な眺めに魅力がある。139本のケヤキの柱で支えられている舞台の高さは13m、ビルの4階ほどに相当する。床面は190㎡、ヒノキ板410枚以上が敷き詰められている。床面の木材を守るために、先端部にはほんのわずかな傾斜がついていて、雨水が自然に流れるようになっているのだそうだ。
清水寺の舞台を下から見上げると、柱と水平の木組みを見ることができる。その柱をよく見ると、手前と奥のほうでは長さが異なっているのがわかるだろう。これは、傾斜地に合わせて柱の長さを調節する『懸造り(かけづくり)』と呼ばれる伝統技法である。柱間に通した貫(ぬき)によって、建物全体がフレーム状となり、安定するのである。
本堂にお参りした後、舞台の縁に立って景色を眺める。正面には赤い子安の塔、右に京都の町並み、左には奥の院と音羽の滝が見える。春の桜、新緑の山々、秋の紅葉と、いずれの季節も甲乙つけがたい景観である。
ところで、この舞台が、平安時代以降、実際に舞台として使われていたことをご存知だろうか。相撲や雅楽、歌舞伎、狂言、能などの芸能が、本尊の千手観音に奉納されていたそうだ。そこで今回は、清水寺の由緒を語る能『田村』のストーリーをご紹介したい。
能『田村』(あらすじ)
前半:ある日のこと、旅の僧が従僧を連れて清水寺を訪れた。それは桜の花が満開の、うららかな春の日であった。そこに箒を持って掃除をしている人がいたので、旅の僧は声をかけた。するとその人は、自分が花守であることを明かし、清水寺の来歴を語った。
昔、大和の賢心(けんしん)という沙門が、木津川の川上に輝く金色の清泉の霊夢を見た。翌朝、賢心はそれを訪ねて川上へと上っていったところ、清泉のもとで長年修行をしている行叡(ぎょうえい)居士に出会った。行叡居士は、賢心を待っていたのだと告げ、霊木を授けて千手観音を彫るように言い残して姿を消した。そこで賢心は千手観音を彫り、その泉の傍らに祀って観音霊場とし、自分は草庵を営んで霊場を守ることにした。
2年後、武人の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が鹿を追ううちに、この観音霊場に迷い込んだ。病を得た妻に、鹿から得られる妙薬を与えたいと、鹿追いをしていたのである。田村麻呂は、清泉の近くで賢心に会った。賢心は田村麻呂に、観音霊場での殺生を戒め、仏の教えを説いた。田村麻呂はその教えに感銘を受けて、すぐに仏法に帰依すると、この地に仏殿を寄進して十一面観音を安置したのであった。
これが清水寺の始まりであると旅の僧たちに語り終えると、花守は田村堂の中に入っていった。
後半:その夜、旅の僧たちは清水寺の桜のもとで読経をした。すると、田村麻呂の霊(実は昼間の花守)が現れて、参戦した数々の戦のことを語り、賢心の彫った千手観音のご加護によって勝利がもたらされたのだと感謝した。
坂上田村麻呂とは?
坂上田村麻呂(758-811)は、実在した武人である。身長は五尺八寸(176cm)、体重201斤(120kg)、赤ら顔で鷲のように眼光鋭く、金色の髭を生やしていたという。怒れば猛獣をも倒す怪力だったが、笑えば赤ん坊もなつく優しい男だった。田村麻呂は京の軍神、毘沙門天の化身とも言われ、やがて京のヒーローとなる。
桓武天皇(737-806)は平安京遷都にあたり、鬼門封じとして蝦夷を征服しようとした。だが788年の第一次征討は失敗に終わる。蝦夷軍のゲリラ戦に苦戦し、死者1000人以上を出す惨敗を喫したのである。そこで、791年の第二次征討で、桓武天皇は田村麻呂を副将に任じた。田村麻呂は前回の惜敗の原因を分析し、自軍の強化に努めた。結果として多くの勝利を収めたが、阿弖流為(アテルイ)率いる蝦夷軍は尚も抵抗を続けていた。
田村麻呂の戦略
797年の第三次征討では、田村麻呂は征夷大将軍に任命され、桓武天皇から節刀(天皇の権限を代行する印)を賜った。田村麻呂は、兵士の他に、天皇支配下にある律令農民を連れて戦地に入った。田村麻呂は、農民たちを通じて、長引く戦乱により疲弊した蝦夷の人々に、稲作や養蚕の技術を教えた。また帰順してくる者には土地を与えて生活を保障し、律令農民との交易を許可した。田村麻呂は人々の生活を安定させることを第一に考えたのである。すると、蝦夷軍の抵抗力は急速に衰えていった。田村麻呂は敵軍の命と暮らしを救うことで、自軍の兵に無駄な戦闘をさせず、損害を最小限に抑えて人々の信頼を得ていったのである。
平安京のヒーロー・田村麻呂
801年、4万の兵を率いる田村麻呂軍は、蝦夷の阿弖流為軍と激突した。戦況は一進一退のまま、翌年にもつれ込んだ。だが最後は、阿弖流為以下500人が、田村麻呂の前に降伏した。田村麻呂は長年の戦乱を終結させることに成功したのである。観音霊場に清水寺を寄進した田村麻呂は、こうして平安京のヒーローになった。境内のほぼ中央にある田村堂(開山堂)には、田村麻呂夫妻と行叡、賢心(後に延鎮)の像が祀られている。
このシリーズについて
懸造り(かけづくり)とは、床下の柱の長さを調節して、建物内部を水平に保つ伝統的建築技法です。これは日本独自の様式であり、懸造りを用いて建てられたお堂は、全国各地の傾斜地や断崖などに数多く見られます。しかし何と言っても、京都清水寺の本堂が最もよく知られている例でしょう。このシリーズでは、全国にある懸造りの建物の中から、その姿とともに、建物から眺める景色も美しい5つのお堂を選びました。
1 京都・清水寺の舞台
2 京都・醍醐寺の如意輪堂
4 奈良・東大寺二月堂
5 千葉・笠森寺の観音堂