京都市洛東、東山に位置する清水寺は、平安遷都(794)以前からの長い歴史を持つ古刹である。
古都の文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録され、一年中修学旅行生や海外からの参詣客が引きも切らない。
この清水寺の開祖には「音羽の滝の伝説」がある。
1300年前、奈良興福寺の僧、賢心(後に延鎮と改名)の夢枕に観音菩薩が立った。
その通りに北へ赴くと、音羽山の音羽の滝のほとりに行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者がいた。
賢心の訪問を喜ぶや行叡はこつ然と姿を消した。賢心は行叡が消えた跡に残された霊木に千手観音像を彫るとその庵に安置し祀った。
これが清水寺の起こりと言われている。
さてその2年後の宝亀11(780)年、坂上田村麻呂が東山の山中に分け入った。
田村麻呂の妻が重い病に冒されておりその治癒のために鹿の生き血が必要だったのである。
藪を進むと音羽の滝の庵に修行中の僧侶がいた。
延鎮である。
田村麻呂が訳を話すと延鎮は殺生を戒め諭し、田村麻呂の妻の快癒を祈祷した。
このことが縁となり田村麻呂は観音に帰依し、延鎮の観音像を祀る社を建てるため自邸を寄進した。
清らかな清水が湧き出る地、というイメージの清水寺であるし、京都切っての人気観光スポットの清水寺であるが、裏のエピソードもその歴史を正視すべきではないだろうか。
今の清水寺辺りは鳥辺野とも言われる。
死は穢(けが)れ、というのが平安時代の死生観であった。
故にそのけがれそのものである屍体は天皇の周辺から遠ざけられ京都市の周辺地域が葬りの地になる。
京都の地名で「野」とつく場所はかつては風葬の地であった。
「あだし野の露、鳥辺野の煙は絶ゆる時しなき、これが浮き世の誠なる。」 ( 「徒然草(つれづれぐさ)」)と兼好法師が書いたように、死人や瀕死の病人は鴨川河岸やこの鳥辺野に打ち捨てられ、火葬の煙が絶えることがなかった。
鳥辺野という地名は、死んだ人を木に吊るしその肉を鳥に食わせる鳥葬の地だったことから名づけられた。
清水の舞台の下あたりであるといわれている。
延鎮上人がそれらの魂を供養しようと宝亀九(778)年に音羽の滝近くに庵を結んだのが清水寺の始まりだ。
清水の舞台から飛び降りる、という言葉は実際に生きるか死ぬか迷った人が本当に飛び降り「生きながらえるか命を失うか」を占ったという由来を持つ。
そのような人間の生死の無常などはある意味達観してこその念仏なのかもしれない。
弔いと鎮魂の念仏を抱いて人は今日も清水寺に向かう。