京都・嵯峨野にある「常寂光寺(じょうじゃっこうじ)」は、小倉山の中腹にあって嵯峨野一帯が見渡せる。その常寂光土(じょうじゃっこうど。仏陀が住む、永遠で煩悩(ぼんのう)がなく、絶対の智恵の光が満ちているところ、の意味)のような風情から寺号が付けられたという。
小倉山といえば藤原定家が選者の小倉百人一首であろう。事実、境内から細い山道を伝い歩いたほど近いところに百人一首が選定されたという「時雨亭(しぐれてい)」跡がある。礎石のようなモニュメントが残されているのみだ。
実はこの寺は日蓮宗大本山の本圀寺(ほんこくじ)16世である日禎上人が、安土桃山時代末期の慶長(けいちょう)元(1596)年、隠遁の寺として創建した創建したのだが、それには訳がある。
文禄5(1596)年、豊臣秀吉が方広寺(ほうこうじ)の大仏を建立した際、日禎上人に出仕が命ぜられた。しかし彼は,
「私は日蓮宗の信徒でありますゆえ、他宗の供養をするわけには参りませぬ。」
と秀吉の命を拒んだ。それでは寺に迷惑がかかるやも知れぬと、嵯峨小倉山に隠遁したというわけだ。
手入れが行き届いた美しい苔庭と、秋の燃えるモミジで今では年間を通じて多くの観光客・参拝者で賑わう常寂光寺である。
その後、大名小早川秀秋らの寄進によって宝塔などが建立された。
この多宝塔はその当時のもので、小倉山の中腹に立ち、どの季節におとずれても美しい。総ひのき葺きの屋根が方形にゆるやかにしなりながら伸び、その屋根が二段に重なっている。これは裳階(もこし)と呼ばれる。この多宝塔はとても仏教的な建築物だ。内部は非公開となっている。
日禎は歌人でもあった。そのこともあって、藤原定家の山荘、時雨亭があったこの小倉山の麓の土地を門倉了以と門倉栄可が寄進した。さらに大名、小早川秀秋らが寄進して堂塔伽藍が整備されたと伝えられている。
紅葉はまだ11月上旬では走りにも至っていない。イロハモミジの老木の枝ぶりが優雅だ。