神戸・三宮から異人館が立ち並ぶ界隈を目指して上って行くと、その街並みの中に北野天満神社は在る。
平清盛が治承4年(1180年)六月に福原に遷都したのだが、その折り禁裏守護・鬼門鎮護の神として京都の北野天満宮を勧請して祀ったのがこの「北野天満神社」である。
北野坂・北野美術館など北野の固有名詞はこの北野天満神社が由来だ。
全国に存在する天満宮、天満神社は全て天神様である菅原道真公を祀っている。
天神様を祀るとは天災、すなわち天空の自然の猛威を鎮めるという意味がある。
菅原道真は政敵・藤原時平の姦計に陥れられ福岡の太宰府に左遷された。
道真の子らも流刑となり一家離散の厳しい処罰だったが、これは冤罪であったと伝えられる。
太宰府での道真公は乏しい報酬で極貧生活を強いられ、失意のまま59歳の無念の死を遂げた。
死後暫くしたある冬の夜、比叡山延暦寺の第13代座主(ざす)「法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)」の夢枕に道真が立った。
「これから私は私を陥れた者共を祟るが、彼らの助けの請願は退け給うぞ」
と、鬼のような憤怒の形相をした道真の怨霊は座主に告げ、ふうっと消えた。
その後である。道真左遷の陰謀に関わった張本人の時平は狂い死に、中納言「藤原定国」、道真の恩赦を求めた宇多天皇の願いを退けた醍醐天皇も狂死。
その皇子たちは5歳、21歳で急死して、京都の貴族たちは大パニックに陥った。
加えて天変地異が京都の街を立て続けに襲うに及んで、天神雷神に乗り移った道真公の怨霊を鎮めなければ明日は我が身と震え上がった皇族貴族が建立したのが北野天満宮なのである。
この北野天満神社がたたずむ神戸。
平清盛なかりせば現在の神戸の大発展は無かったかも知れない。
清盛はそれほどのキーパーソンである。
神戸港はかつては大和田泊(おおわだのとまり)と呼ばれていた。
政治家としては相当なワンマンであった清盛だが彼はビジネスマンとしても類稀な才能と手腕を発揮した。
当時の中国の宋との貿易を振興させその基幹港として神戸を整備したのである。
清盛によって整えられた瀬戸内海航路、宋から輸入された宋銭による貨幣経済システムの導入など、経済物流の大きな改革発展は清盛死後も幾多の時代を経て面々と受け継がれてきた。
北野天満神社の急な石段を登りきると眼下には神戸の街並みが、遠くには神戸港が一望できる。
道真の祟りも清盛初め平家一族の叫喚も明治の異人外国人の呟きも時代の遥か彼方に消えて、うららかな日差しが舞う境内には記念写真を撮り合う観光客が引きも切らない。