方広寺と運命の鐘

大阪城を落城へと導いた京都、悲劇の鐘

京都の方広寺境内には、豊臣家の命運を分け、滅亡へと導いた運命の鐘がある。この鐘が原因で豊臣家は滅んだ・・・と言えば少し大袈裟かもしれないが、「運命の鐘」と呼ぶ方が単なる「鐘」より劇的ではないか?!

背景
子供の頃歴史の授業で習った事をちょっと思い出してほしい。徳川幕府の初代将軍徳川家康は、265年も続いた平穏な江戸時代の基礎を造り上げた人物だ。この家康が1615年に豊臣家を滅ぼした。関ヶ原の戦い (1600) で勝利を収めた後、家康は徳川幕府を開いた (1603)が、なぜ彼は即座に豊臣家を滅ぼさず15年間も待ったのだろう?

理由は簡単だ。なぜなら家康は、「豊臣の天下を救う」ために関ヶ原の合戦を戦ったからだ! 「豊臣家を救う」という大義名分があったればこそ、故 豊臣秀吉臣下の大名達が家康に加担して戦った。それなのにその秀吉の忘れ形見、当時5歳の豊臣秀頼を滅ぼせるわけがないではないか? このような事情で家康は、如何にして裏切り者、泥棒呼ばわりされず天下を掌中に収めるか、じっくり機会を窺わねばならなかった (当時家康は秀吉の最も有力な臣下だった)。

家康の忍従
家康という人物は、その類まれなる我慢強さで知られている。戦国時代の有力武将だった家康だが、天下人の織田信長 (1534-1582) や豊臣秀吉 (1537-1598) に対抗するには力不足で、泣く泣く彼らの臣下に下った。織田信長が家康の忠誠心を試すため、正室と長男を処刑するよう命じた時 (1579年、もちろんそれなりの理由がある)、家康はその命に従い我が妻と大事な長男を処刑までして見せたのだ! この件一つを取っても彼の忍耐力の強さが窺えるというものだ。

というわけで、今回も家康は待った。私見だが、当初家康は豊臣家を「滅亡」させようとまでは考えていなかったのではなかろうか。というのも秀吉の遺言に従い、自分の孫娘を秀吉の嫡子、豊臣秀頼に嫁がせているのだ。恐らく豊臣家が徳川幕府臣下の一大名として満足さえしておれば、命は助けたに違いない。しかし関ヶ原の戦いが終わり、家康が徳川幕府を開いて将軍になった後も、秀吉の忘れ形見、秀頼は、一大名としてではあるが、日本最強の城塞、大阪城に居座り続けたのだ。当時はまだ秀頼に忠実な強力大名も残っており、家康にとっては看過しがたい話だ。大阪城のような難攻不落の城塞に籠城されれば、落とすどころか負けるかもしれないではないか。家康、ここが思案のしどころだ。

家康の工夫
家康は彼らに、大阪城を転封し関東地方の城に移るよう促す。しかし彼らは聞き入れなかった。京都高台寺に隠居した秀吉の正室ねねも何度か説得したが、答えは否だ。ここで「彼ら」と呼んでいるが、秀頼はまだ子供なので、「嫌だ」と言っているのは秀頼の実母、秀吉の側室 淀君だ。淀は頑なに大阪城を出ることを拒んだ。出るや否や関東辺りの小さな城に閉じ込められて殺されると思っていたのだ。在り得ない話ではないが、助かる可能性もあるではないか・・・

追いつめられた家康
家康は老いていた (豊臣家を滅ぼした時、なんと73歳だ!)。いつ死ぬとも知れぬ命の上に、自分の跡継ぎはぼんくらだ。何とか死ぬまでに徳川幕府の基盤固めをしておかねばならない。如何なる脅威も排除する必要がある。そこで老齢の家康、まずは豊臣家の財産減らしを画策した。豊臣秀頼は臣下の一大名に成り下がったとはいえ恐ろしく裕福だった。父である秀吉が大阪城の蔵にうず高く積み上げられた黄金を残したからだ。これを減らさねばならない! そこで家康、秀吉の菩提を弔うため、神社仏閣を改修、建築するよう豊臣家に提案した。この提案に応じて豊臣家は、数知れぬほど多くの寺や神社の建築改修に乗り出した。例えば北野天満宮由岐神社方広寺 (この寺だ!)金戒光明寺安楽寿院東寺の金堂清凉寺醍醐寺相国寺、等々、秀頼が寄進した寺や神社は枚挙にいとまがない。我々現代人がこれら神社仏閣の美を今堪能できるのも、もとはと言えば秀頼の寄進のおかげなのだ! しかし秀頼とその一族の辿った末路を思えば、単純に喜んで良いものかどうか、複雑な気分に襲われる・・・

運命の鐘
ここで家康、ついにとどめの一撃を加える。方広寺は前述したように秀頼が寄進して建立していた寺だ。建築がほぼ完了し、あとは開眼供養を待つばかりとなったところ、家康がそれを止めた。なぜか? 家康への呪いの文言と思しき文章が、鐘に刻まれていると言うのだ。鐘に書かれた国の泰平を願う文言「国家安康」、この中で家康の名、家と康が安と言う字で引き裂かれている。これは呪詛だ、謀反だ! と家康は言うのだが・・・なんたる言いがかり・・・しかし、余命いくばくもない家康も必死だ。

何が起こったか?
秀頼を攻撃する大義名分を手に入れた家康、計画を実行に移す。大阪城攻撃だ。故太閤の忘れ形見、豊臣秀頼を滅ぼすため、かつては秀吉の部下、今は家康臣下の大名達も次々と従った。徳川軍は1614年と1615年、2回にわたり大阪城を攻撃、城は秀頼とその母を業火に包み、落城した。ところで淀は、秀頼の正室、家康の孫娘である千姫を落城前に開放し、家康の元へ無事届けた。家康に対するせめてもの当て付けだろうか・・・ (ちなみに家康は当時8歳だった秀頼の側室が産んだ嫡男を大阪の役の後処刑した。こうして豊臣家は滅亡するに至る。)

P.S.
方広寺とその運命の鐘は、秀頼の父、豊臣秀吉を祀る豊国神社の隣にある。京都東山界隈を訪れた際には、共に是非訪ねてみてほしい。また、秀頼の寄進により建立、修復された神社仏閣を見かけたら、秀頼の短い悲劇的な人生にちょっと思いを馳せて頂ければ幸いだ (彼は22歳で亡くなった)。

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