福井の城址からほど近いところに養浩館という美しい庭園屋敷がある。
国の名勝にも指定された回遊式林泉庭園を持つ屋敷は旧福井藩主松平家の別邸で、江戸時代には「お泉水(せんすい)屋敷」と呼ばれていた。このお泉水という名称は今日市内の通りにその名を残している。
先の大戦中の昭和20年7月19日の福井大空襲はこの館をも見逃さず全焼という惨禍に見舞われてしまった。
以後暫時荒地であったが再興の機運の中で往時の再現が叶ったものである。
入口から左に折れ庭園に歩を進めて行くと、湧水が静かに敷地の隅から迸(ほとばし)り出ているのを観ることができる。
さらに回り込むと、折りしもの冬の冷気に息をひそめているように微動だにしない池が築山を右手奥に従えてひっそりと佇んでいた。
いつかしら降りだした綿屑のような雪は途切れることがなく、虚空彼方から神の手で撒かれたかのようにそこはかとなく美しさがつのる。
白い雪をかすかに乗せた砂利の小道を一歩ずつ進めてゆくと、対岸から池越しに館を臨むことができる。池に向かう私の背後には梅の林があって、小枝の先に結んでいる芽は直に芳しい紅の花を結ぶはずであろうが、今日などはその姿さえ想う事はできぬほど縮こまっている。
城郭から離れてこの別邸に遊べば、空を舞う鳶の緩やかな動きに気も和んだに違いない。
が、この別邸で産声をあげた赤子にまつわる物語は福井の行く末まで巻き込む歴史上の大騒動となった。
江戸時代初期の明暦2年(1656年)、福井藩主松平光通の側室、お三の方が城で産気づくと人眼を避けるようにこの養浩館に運ばれるや一人の男子を産み落とした。
名を直堅という。
父光通は正室国姫の実家である越後高田藩から政治的圧力が自身にかけられているのをひしひしと感じていたから、この出産は正室には言うに憚られた。
だがこのような秘め事こそ伝わるのは速やかである。国姫の祖母、勝姫はこれを聞くや激怒した。
光通の兄弟の妻たちは国姫ほどには身分が高くなく、それらの事情に鑑みても跡目は光通の嫡男と目されていたのである。
高田藩からは「貴藩の次期藩主は正室国姫の嫡男以外はあり得ません。このことは厳粛にご確認戴けますよう申し候」という起請文が送られてきた。
このことですっかり委縮狼狽してしまった国姫は雅な和歌をたしなむ朗らかささえ失っていった。
35歳になった国姫自身は寛文11年(1671)、
「御父上様、御祖母上様。男子を産めないことを深くお詫び申し上げ候」
と書き遺し自ら命を絶ってしまった。
すでに15歳の多感な少年に成長していた直堅は義母の自殺の後まもなく出奔した。
義母の実家から「国姫の死の直因は直堅にある」として暗殺者が放たれたと危惧したのである。
あまつさえ、親族や国姫の実家からの圧力にすっかり自信喪失となった光通は、延宝2年(1674)3月、
「庶弟の昌親に家督を譲るように願い奉る」
との遺書を残して自刃。
ちなみに表向きは病気死亡と「越藩史略」にはあるが、「国事叢記」には「光通君御頓死、村正刀において御自害共」と記されていた。
この遺言がさらに福井藩を大混乱に陥れることとなる。
嫡男・直堅、遺言指定の弟・昌親、さらに順序かれすればより権利がある兄・昌勝の三つ巴の後継者争いとなって福井藩内は千路に乱れたのである。
結局紆余曲折の末に昌親が名を吉品と変えて藩主に収まることとなる。
やがて隠居後はこの御泉水屋敷にその身を休めた。
日がな一日庭を歩き観て暮らす吉品の目に映る冬枯れの楠は、皐月の頃であればその寒枝に青葉が茂っていて木漏れ日に遊ぶ若葉が美しいはずであった。
この庭の草木も、そして人もそれぞれに根を下し花をつけ、風に枝を折り、枯れてゆく。
庭も池も石も木も変わらぬが、その定めに翻弄されて若き命を散らす人の一生とは何か。
胸のどこからか沁みだしてくるそのような声に吉品は静寂の雪景色の中で一人耳を傾けていたのではないだろうか。