祇王寺(ぎおうじ)は寺というよりはむしろ草庵(そうあん)の佇まいである。和室二間に台所が付いた小さな建物だ。祇王ら4人がどのような庵に住んでいたのかは知る由もないが恐らくもっと粗末ではあっても現在の祇王寺より勝ることはないだろう。本堂の東になだらかに広がる斜面の庭園は青々とした苔が鮮やかだ。
祇王のとりなしにしぶしぶ願いを受け入れた清盛は額(ぬか)づく娘に、
「今様(いまよう)を歌ってみよ。」
と命じた。平伏していた仏御前(ほとけごぜん)はやおら立ち上がると、歌い出した。
「君をはじめて見る折は
千代も経ぬべし姫小松
御前の池なる亀岡に
鶴こそ群れいて遊ぶめれ」
(君に初めてお会いするときは千年も命が延びるでありましょう、私、姫小松(ひめこまつ)
御前の庭の池にある亀岡(かめおか)に鶴が群れて飛んでいるようです)
仏御前の澄んだ張りのある声が閑静な屋敷の庭いっぱいに響きわたった。
「大したものじゃ。ならば今度は舞を一つ披露(ひろう)してみよ。これ、皷(つづみ)手を呼べ。」
仏御前は皷の響きに合わせて、軽やかに舞った。細く美しい手指の動く様は花びらが散るよう。しなやかな手足が伸び床を踏み宙にくねる。
舞い終えたとき一同は呆然とその余韻に浸っていた。静寂があたりを包み込んだ。清盛の意識はすでに妄想の彼方に飛んでおり、寝屋で仏御前を組み伏せていた。
ふと我に帰った清盛は、
「仏御前とやら。只の今からその方をわしが召し抱えるぞ。よいな。」と有無を言わさぬ野太い声で告げた。
「滅相もござりませぬ。この度は祇王御前様のお情けで歌舞の機会をいただきました。十分でござります。これにて下がらせてくださいませ。」
と仏御前はひれ伏したまま清盛に応えた。
「それはならぬ。わしが一度決めたものはくつがえすことはない。そちが祇王に遠慮するなら、祇王を下がらせよう。」
そう言って祇王の方を向くと、
「祇王、今からお前には暇をやる。この屋敷から退去せよ。二度と出立には及ばぬ。」とつい一刻前まで優しい笑みをかけてくれたのと同じ人とはとても思えない冷酷さである。
いつかこのような日が来るかも知れないということは多少は心の片隅には置いていたがまさかこれほど急とは信じられない。3年の間、見慣れ住み慣れたお屋敷をこんなにもあっけなく去るのか。祇王の目から涙がこぼれ落ち、ぽたぽたと畳をぬらした。
部屋の出際に祇王は襖に歌を一首書き残した。
「萌え出づるも
枯るるも同じ 野辺の草
いづれか秋にあわではつべき」
(萌え出るのも枯れるのも同じ野辺の草です。いづれは秋にあって枯れ果ててしまうでしょう)
お屋敷から帰るやただ泣きぬれて伏す祇王にその訳を問うても返事がもらえない母と妹は従者から経緯を聞き知って、一家ともども深い悲しみに暮れ沈むばかりであった。(第三部に続く)