福井県を貫いて流れる九頭竜川は古来より水運の要であった。
その河口に位置する三国という町は、水運による物流が平水路用船舶から海上航路にも耐えうる大型船へと変遷していくに従い物流規模の増大によって江戸中期から昭和の初めまで、北前船貿易によって大いに繁栄したのである。
九頭竜川河口の東岸沿いには廻船問屋の美しい蔵屋敷が軒を連ねた。
当然ながら北前船貿易の隆盛は料亭、お茶屋の増加を促し、それに伴っての芸妓、その置屋、貸し座敷など花街の発展へと波紋を広げて行くこととなる。
福井市街部の古式ゆかしい建造物が、先の大戦の空襲と戦後まもない昭和23年の福井震災とで完膚なきまでに破壊され尽くしたのに対し、三国の幸運さはその両者から免れられたことだ。
おかげで、江戸から明治、大正とそれぞれの時代の息吹が吹き込まれた趣きのある建物は三国町内のいたるところに見てとる事ができる。
「魚志楼」はそのようなかつての花街の中にあって賑わった芸妓の置屋であった。
初代松崎四郎平が明治初期に創業。
四郎の名から志楼が取られたという。
置屋の座敷を一棟立て増す毎に渡り廊下で繋ぐ。
全体は、かぐら建てと呼ばれる様式の建築物だ。
現在は建物全体が有形文化財の指定を国より受けている。
有形文化財は建物の外観の現況保存の義務を負うが、内部は改装自由である。
しかし女将の松崎真理子さんは、
「いくらでも綺麗に改装できるんですけど、昔そのままの物を置いておきたいんです」
と、使い込まれた建物や道具の古さにかえって一層魅力や愛着を感じるという。
なるほど店内には置屋を偲ばせる三味線や和箪笥が渡り廊下に置かれている。
座敷の隅の火鉢や鉄瓶も昔懐かしいフォルムだ。
離れの座敷は明治6年(1873)の建造である。
座敷の金屏風や襖絵は往時の華やかさを彷彿とさせる。
北前船貿易が陸上鉄道輸送に切り替わり衰退していくにつれて三国は賑わいと花街の艶やかさを次第に失って行った。
時代の趨勢である。
「魚志楼」もその例外ではなく、長らく続けてきた生業は無念にも閉じられることとなった。
それ以降はたまの宴席に貸し座敷ほどの営業で店を開けることはあったものの、それも年に数回である。
傷みも目立ち出した建物を前に若き日の女将は、夫婦二人三脚で「魚志楼」を再興しようと決意した。
アンティークな素晴らしく美しい食器も陽の目を観ることができる。
いろいろな人にお目にかかれる。
何よりこの館が大好きだ。
自身の身体の奥底から聞こえてくるそれだけの声を聞けば踏み出すことの決断には十分な勇気だった。
エンジニアとして勤め人をしていた夫は退職し包丁を握った。
以来四半世紀を共に歩んできた夫だったが2011年に急死。
次は自分が跡を継ぐと京都の料亭で修業を重ねていた長男の陽平氏が帰郷、店主となった。
京料理の技法で三国を初めとする地元福井の食材を供したいと陽平氏。
三十二歳とこれから伸びしろ十分の若き料理人である。
精確な調理技術に裏打ちされ洗練された料理を以て、新「魚志楼」となったようだ。
カウンターで三国湊の魚と共に福井地酒の純米酒を楽しむのもいい。
また座敷での会席で見事な襖絵を愛でつつ持ち込ませてもらったワインに酔いしれるのも嬉しかろう。
アンティークな古き店という器に盛られた雅と若さの味わい。
この魅力を得てこれからの「魚志楼」がとても楽しみになってきた。