九頭竜川河口の東岸はかつては北前船交易による廻船問屋がずらりと立ち並んでいた。
それぞれの問屋の蔵には廻船が直接横付けされ船荷が上げ下ろしされたものだ。
しかしその隆盛も昭和の初期に鉄道などの陸上輸送に奪われ衰退していくにつれて、暮らしとともに三国も町並みを変えていくことになる。
それでも、往時を忍ばせる問屋の建物のいくつかは街の遺産として今日までも受け継がれてきた。
川沿いの大通りを一本中に入った通りを歩いてみると、町屋作りの建物が何軒も以前のままに保存されている。
博物館として公開されているのが「旧岸名家町家」だ。
入り口をくぐるとボランティアガイドの男性がちょうど前のグループの案内を終えたところだった。
岸名家は材木商を営む新保屋岸名惣助が興した豪商でその末裔が代々居住してきた。
かぐら建てという三国独特の建築様式が個性的な堂々とした構えだ。
木製の吊り戸で開閉する蔀戸(しとみと)が興味深い。
入り口の右脇には商店の帳場があり、ここで商談がなされたのだろう。
床には水を撒くと淡い緑に変わる福井産の笏谷石が敷き詰められている。
京都の町屋と同じくうなぎの寝床のように奥に細長く伸びる長屋である。
左手は台所の板の間。右は畳敷の居間と座敷がある。
商屋だけに実に質素な佇まいだが落ち着いた簡素の美がなんとも良い。
明治初期は三国とその周辺の地域は石川県に属していた。
だから臙脂(えんじ)色塗りの紅壁は加賀前田の殿様の色だと聞いて納得がいった。
商屋の主たちの挿話をいくつか。
今日ならば、事業で成功した人たちはやれ銀座だやれヒルズだというところで散財するのだろうが、昔の金持ちは違った。
書画骨董の美術、俳句和歌の文学、歌舞伎の古典芸術の支援など、芸術文化の造詣を深めることをステータスとしたのだ。
岸名家初代は松尾芭蕉の俳門にあって、芭蕉の高弟であった支考から文台を授かり「日和山吟社」を結成。
初代の宗匠として三国の俳諧を隆盛に導いたのである。
これによって三国は福井県でも珍しい俳諧が盛んな地となった。
彼らは家の内風呂には入らず銭湯に通ったという。
銭湯の大風呂で情報を交換したりして商いに繋げた。
だから、土間奥の風呂桶はとても小さいのだそうだ。
最後のエピソード。
毎年5月20日に開催される「三国祭」という豪勢な祭りがある。
数メートルもの高さの武者人形を載せた山車を町内引き回す。
現在は数台の山車だが、かつて三国の最盛期には一軒の商屋がひとつの山車を出したという。
こういうところで町のにぎわいに還元した彼らの心意気が忍ばれるものだ。
三国に百人以上もいたという三国芸妓たちの三味線や踊りも今は消えて、ひっそりと静かな風情である。
しかし、歴史を保存し町のにぎわいへつなげようとする三国の人たちの熱い思いは通りのそこかしこにみなぎっていて頼もしい。