江戸時代、日本の物流は廻船による海上水運によってなされていた。江戸・大阪航路のほかに東北沿岸を北上し宗谷海峡を抜けて日本海沿岸へと至る東回り航路、大阪から瀬戸内海を抜けて下関から山陰北陸へと至る西回り航路という水運のネットワークが完成して、各地の特産品が全国に流通していたのである。
これらの貿易を担っていたのが廻船問屋であった。福井藩にあっては、親藩大名松平家の福井城が日本海から20数キロ内陸にあったため、この廻船貿易の窓口は九頭竜川河口にある三国を窓口にして発展した。その三国の廻船問屋の豪商の筆頭が森田家である。森田家は元々福井藩との繋がりが薄かったため御用金という重い上納金負担を逃れることができた。これにより、他の内田家が御用金負担で衰退していくのを尻目に幕末期には三国随一の豪商に伸長していくのである。
明治になると物流手段は難破のリスクのある海上輸送から鉄道による陸上輸送にとって代わり廻船貿易は徐々に衰退していった。
「これからは蒸気機関車の鉄道輸送の時代だ。海が時化て船が出せない嵐の時でも機関車は走る。難破の心配もない。北前船の事業にもはや未来はない。」
三国湊に係留されている船を眺めながら森田三郎右衛門は一人つぶやいた。全盛期には16艘の和船を所有する豪商森田は1883年に海運業から撤退、兼業していた醤油醸造業の傍らで銀行金融業という新しい業態に転換する準備を着々と図っていた。
1894年、念願の「森田銀行」を創業すると、折りしも敦賀から福井・小松まで鉄道が延伸整備される機に乗じて、さらに鉄道貨物を扱う倉庫運送業に進出し、森田家は三国随一の資産家として成功を収めたのである。森田は銀行本店ビルを1920年に落成した。横浜町会所(現・横浜市開港記念会館)や長崎県庁を手がけた山田七五郎が設計を担当した。
天井の美しい漆喰模様や、茶系のタイル貼りの外観は西洋の古典主義的デザインで、細部にわたって拘った建築美に対する高い意識がうかがえる。アメリカ発世界恐慌が日本にも波及すると国は各地の銀行の統合・合併によるリスク分散を指導した。これによって森田銀行は福井銀行と合併、三十余年という短い社会生命を閉じた。
復元工事を経てこんにちでは、国指定登録有形文化財として無料で一般公開されている。